さて、また大晦日である。時間経過のあまりの速さに心中おだやかではないものが出没するのは年齢のせい、ときめつけるのはたやすい。それに続く言葉は「残された時間の短さや大切さを思って~」という類の陳腐なフレーズである。
若くはない自らの年齢を時々思ってみるのは事実だが、そして残された時間をそのときに「敢えて」想像したりしないでもないが、実感は正直ない。再び「敢えて」先は長くないのだから毎日しっかり生きよう、と自身を鼓舞してみたりもするが、そんな誓いはまたたく間に忘れてしまうのだから無意味である。
年を取るごとに時間経過が早く感じられるのは、「人の時間の心理的長さは年齢に反比例する」というジャネーの法則によって説明されるが、それは要するに、人は年齢を重ねるに連れて見るもの聞くものが増え、さらにデジャヴ(既視)感も積層して興味が薄くなる、ということなのだろうと思う。
どこかで既に実体験していたり経験したと感じることなので、人はそこで立ち止まって事案をしみじみと見、聞き、感じ、吟味して、勉強することが少ない。立ち止まらない分、人は先を急ぐことになり時間が飛ぶように過ぎて行くのである。
そこには大人の驕りがある。年齢を重ねて知っていることも事実多いのだろうが、無駄に時間を費やし馬齢を重ねただけで、実は何も知らない知ったかぶりの大人は自分自身も含めて多い。それでも知ったつもりで、人は先へ先へと足早に進むのである。死に向かって。
すると理論的には、知ったかぶりをしないであらゆるものに興味を持ち続ければ、人の時間はもっとゆっくりと過ぎて行くと考えられる。だが僕の感じでは、少し違う。
知らないことがあまりにも多すぎて、その過大な未知のもろもろを学び、知り、体験するには、一日一日が短かすぎる。短かすぎる時間の経過(毎日)の積み重ねが、すなわち「時間の無さ感」を呼び起こすように思う。
つまり、時間が疾風よりも光陰よりもさらに速く過ぎていくのは、「一生は短い」という当たり前の現実があるからである。その短い一生を愚痴や、怨みや、憎しみで満たして過ごすのはもったいない。人生にはそんな無駄なことに費やす時間などないのだ。
と、何度も何度も繰り返し自らを戒めるものの、人間ができていない悲しさで日々愚痴を言い、怨み、憎む気持ちが起こる。その度にまた自戒する。
結局、人の人生の理想とは、多くの事柄がそうであるように、愚痴らず、怨まず、憎まない境地を目指して、『試行錯誤を重ねていく過程そのものにある』と思うのである。
閑話休題
間もなく紅白歌合戦が始まる。イタリア時間では午前11時15分。それを見ると熱燗で一杯やりたくなって、一杯がどんどん重なって結局一日が終わってしまう。
そこで夜の再放送を見ることにして、ことしも多かった「書きそびれた事ども」を整理することにした。年内に物事を片付けて新年をあらためたくなるのは、日本人の癖である。
何年外国に住まおうと変わらない・・