800チョイあくび



僕が菜園を始めたのは、南アルプスに川釣りに行って、左肩だっきゅうと打撲で全治1ヶ月余の大ケガをしたのがきっかけである。

僕は釣りが好きだ。かつては海釣り一辺倒だったが、海まで遠いイタリアの内陸部に居を構えてからは、近場の湖や川での釣りも覚えた。

その時は森林監視官で秘密の釣り場を多く知っているイタリア人の友人と2人で出かけた。クマも出没する2千メートル近い山中である。

険しく、緑深い絶景が連なる清流を上るうちに、なんでもない岩に足を取られて転倒した。肩に激痛が走って僕は一瞬気を失い、身動きができなくなった。

救急ヘリを呼ぼうにも携帯電話は圏外で不通。たとえ飛んできても、木々が鬱蒼と茂る深い谷底である。救助は無理に違いない。

100則包帯アメリカン縦その後1ヵ月余り、僕は酷暑の中で上半身をぐるぐると包帯で固められて呻吟した。その途中で退屈まぎれに右手ひとつで土を掘り起こし野菜作りを始めたのだった。


野菜作りはおいしい食料の獲得、という実利以外にも多くのことを教え、気づかせてくれる。

種をまいた後は何もしなくても、大地は最小限の野菜を勝手にはぐくんでくれる、という驚愕の事実に気づいたのも菜園のおかげだ。

季節の変化に敏感になり、野菜たちの成長や死滅に大きくかかわる気候変動に一喜一憂し、育児のごとく世話を焼く。

もっとも感動的なのは、土中で種から起きた芽が、背伸びをし肩を怒らせてはせりあがり、「懸命に」土を割って表に出てくる瞬間だ。

それは大地の出産である。いつ見ても劇的な光景だ。

出産できない男がそこに感服するのは、おそらく無意識のうちに「分娩の疑似体験」めいたものを感じているからではないか、と思う。

自ら耕やし、種をはぐくむ過程が、仮想的な胚胎の環境を醸成して、男をあたかも女にする。そして男は大地とひとつになって野菜という子供を生むのである。

それはいうまでもなく「生みの苦しみ」を伴わない出産である。苦しみどころか生みの喜びだけがある分娩だ。だが楽で面白い出産行為も出産には違いない。

一方、女性も菜園の中では「命の起こりの奇跡」を再び、再三、繰り返し実体験する。真の出産の辛さを知る女性は、もしかすると苦痛を伴わないその仕事を男よりもさらに楽しむのかもしれない。

菜園ではそうやって男も女も大地の出産に立ち会い合流する。野菜作りは実利に加えて人生の深い意味も教えてくれる作業だ。少なくともそんな錯覚さえも与えてくれる歓喜なのである。