伊良部海岸800pic


イタリアから帰国し、故郷の沖縄を訪ねて、そこかしこの島をうろついている。帰省するときのいつものパターンである。

若い頃の僕の夢は、50歳くらいで仕事をやめて冬の間は沖縄の離島で暮らし、残りの季節はイタリアで過ごす生活に入る、ことだった。

当時は人の50歳は、棺桶に片足を突っ込んでいるほどの年齢、に思えたものだ。が、50歳どころか、還暦さえも過ぎた今の自分はまだ元気だ。その代わりに冬の間を島で遊んで暮らす時間も気持ちの余裕もないが。

もっとも夢は捨てていない。理想は11月頃から3月あたりまで島でのんびり過ごすこと。それはまだとてもできないが、1月~2月の2、3週間を沖縄で過ごすことは以前も、また今でも結構やっている。

イタリアには、冬の間をスペインのカナリア諸島やカリブ海の島々で暮らす友人知己が多くいる。チュニジアやエジプトなど、北アフリカのリゾート地も人気だったが、テロ組織のイスラム国などの横行で近年はすっかり嫌われてしまった。

彼らの多くは実業家や弁護士や医者などである。裕福な人々だ。だがそれほどではなくとも、やり繰りや貯蓄で頑張って冬の逃避行を実現させる者も多い。僕もいつか彼らに倣(なら)って冬を常夏の沖縄で過ごしたいと思っている。

もっとも最近は沖縄にはこだわらず、冬の間は「冬のない世界」を移動して暮らすのも悪くない、と考え始めている。実現できるかどうかは全く別の話だけれども。

自分の思惑や願いはさておいてよく思うことがある。僕の生まれ故郷を含む僻地の島々の行く末である。島々は多くが過疎化に悩まされている。そして過疎化に立ち向かう方策が、ほとんど全てのケースで観光産業の育成である。それは恐らく正しい。

農業以外にこれといった産業のない島では、観光事業への期待は大きい。島々の役場はなんとかして多くの観光客を呼び込みたいとあれこれやっている。

この「多くの観光客」を呼び込みたい、という考えは誰もが抱くものだが僕はそこに少しの違和感を覚える。辺鄙の小島にはふさわしくないコンセプトに見えるのだ。

それというのも多くの観光客は、島に恵みをもたらすこともあるが、島を破壊することもある。特に小さな陸地の場合は顕著だ。それは両刃の剣なのだ。

そのことを考慮せずに、何でもいいからとにかく観光客を誘致しよう、と動くのは無責任のそしりをまぬかれないのではないか。

そうは言うものの、観光を振興させたいのなら、もちろん観光客の数は大事だ。多くの観光客を迎えたい気持ちは分かる。

だが僕は、観光客の数を極力おさえて、収入を上げる方策も模索するべきだと考えるのだ。薄利多売ではなく、いわば「厚利薄売」あるいは希少価値商売である。

観光客をできるだけ多く呼び込んで発展を目指すには島々はあまりにも遠く、あまりにも小さく、あまりにもインフラや歓楽・文化施設などが貧しい。人心も観光産業に慣れていない。薄利多売はおそらく無理だ。

ならば厚利薄売はできないか、と考えてみるとこれも難しい。だが、薄利多売よりは可能性は高いと考える。キーワードは希少価値である。あるいは想像を絶する遠隔性である。逆転の発想で、例えば高齢の富裕層などを呼び込むことはできないか、と思うのである。

それも冬季の彼らの長期滞在先として。なぜなら島には冬がないからである。その現実を活かして、冬場に長期滞在をする観光客を増やす知恵を絞れば、あるいは道が開けるかもしれない。

長期滞在をする観光客はもはや観光客ではない。半ばは島の住人である。島人は彼らをそのつもりで受け入れなければならない。もっと言えば、冬以外の季節も島の住人になってもらうつもりで歓迎するのである。

今後、日本人の「生活の質」が欧米並みに豊かになって、長い休暇や季節ごとの移住生活が可能になれば、辺鄙な島も海の美しさと暖冬という2大利点を活かして発展できる可能性がある。

発展とまではいかなくても、過疎化によって島の住民の生存そのものがおびやかされ、ついには無人の島になってしまう危険を避けることができるかもしれない、と考える。

またさらに言えば、僕のように辺鄙の人心や民俗や風儀や海や暖かさが好きな人々を探し出し、訴えかけ、誘致し、歓迎することである。

この際だから敢えて付け加えれば、それらの人々は大金持ちではなくとも、ある程度生活に余裕のある富裕層やそれに近い人々であるのが理想だ。なぜなら彼らは長期滞在をする可能性が高いから。。。