便器&ビデ800pic
便器とビデが並ぶイタリアの普通のトイレ


ちょうどピョンチャン五輪の最終日に日本からイタリアに戻ってみると、選挙戦たけなわである。五輪開催中もメディアの関心は総選挙で、スポーツではなかったと聞いた。国際大会をことさらに騒ぐのは、国際的に重きをなさない日本と日本人の劣等感の裏返しである。

5日後に迫ったイタリア総選挙と、「自らが国際的によそ者であることを知っている日本人の心理」をオリンピックにからませて書こう、と思い立ったのだが、それらよりも気になることがあるので先ずそれを書いておくことにした。

今回のひと月ほどの日本滞在の間に、生まれてはじめて温水洗浄機能つき便座 (以下ウォシュレット) を経験した。それを普通に使っている人は、僕の時代遅れを笑うかもしれない。外国住まいをしていると、日本に帰った際にウラシマタロー的感慨を抱く場合が少なくない。

ウォシュレットもそのひとつと言えるが、実は「それを使用する」のが初めてであって「その存在」はずっと知っていた。戸川純のCM「おしりだって、洗ってほしい」もよく見たし覚えている。帰国する度に使うチャンスはあったのだが、まったくその気にならなかった。

イタリアのトイレには、便器と並んでビデが備え付けられている。それを女性専用だと思っている人は間違いである。むろん女性も使うが、それは用を足した後に尻を洗う装備でもある。男も使うものなのだ。

女性は2重の目的に使用し、男は便座から移動して尻を洗浄する。幼いころから使っている僕の2人の息子は、用を足した後にビデで尻を洗わないと気持ち悪くて落ち着かないそうだ。それは妻も同じらしい。

僕は、洗浄便座としても使われるイタリアのビデも、一切使ったことがない。その気にならないのである。今回東京のホテルでた試したのは、暇が招いた偶然である。仕事も兼ねてはいたが、休みの要素も強かった今回の帰国は、のんびりする時間もかなりあった。

最近は日本の ウォシュレットにおどろき、喜び、楽しむ外国人のSNS投稿などもあふれている。中国の習近平国家主席が「国を挙げてトイレ事情を改善する」と宣言した胸の内には、衛生観念に加えて 日本の温水洗浄便座の優秀も意識されていたのではないか、という個人的な興味などもあった。

使ってみていっぺんで気に入った。楽しく面白いので、用も足さないときにも座ってはシュワッと噴射させては遊んだりした。知る人には今さらながらのばかコメントに聞こえるだろうが、噴射水が温水というのもやっぱすごいよね、と腹から感動したりした。それになんといっても清潔だもの。

それならば、さて、イタリアに戻って用を足してビデを使うかというと、やはりまったくその気にはならない。ビデは温水も出るから寒い中でも良さそうには思えるが、便座からビデに移動しなければならないことや、自分で尻を手洗いしなければならないことなどがなんとなく面倒くさい。

そんなわけで帰伊後は普通にトイレットペーパーを使うだけの生活に戻った。ウォシュレットを用いる場合と比べるとかなり不潔なのだろうが、正直そんなに切羽詰った気持ちではない。でも本当は汚いに違いない、とは密かに思っている。トイレットペーパーは完璧ではないのだ。

尻にまつわる話は、尻が性的か否かまた女性の場合それは乳房に似ているかいないかなど、僕の心を波立たせる命題であり悩ましい事案なのだが、そのことはまたおいおい書いていくことにして、ここでは公共のプールと尻の関係を述べておくことにした。

結論を先に言えば、公共のプールでは泳がないほうがいい。特にウォシュレットが普及していない日本国外のプールでは。そこはウンコがいっぱい詰まった場所なのだ。

プールで密かに小便をする不埒なヤカラがいるらしいが、そしてそれは既に不快な想像だが、実はもっと大きな問題は人々の尻に残っている「拭い切れなかった」ウンコたちだ。

例えば、「不潔が脂ぎったオヤジよりも嫌い」というミメウルワシキ若い女性が、用便の後に懇切丁寧に尻を拭っても、そこには必ずかすかにウンコが残る。いわんやオバン・オババの尻においておや、である。ヤローどものケツや「拭き拭き」がテキトーな子供たちの尻にはもっと残る。

それらの大勢の尻のウンコは、ウォシュレットと化したプールの水にキレイに洗われてそこら中に漂う。これは人々がいかに丁寧に真剣に繰り返し尻を拭こうとも、「ぬぐい切れない」事実なのである。科学的にも証明されている。

大量のウンコとはいえプールもでかい。従ってウンコ汚染は健康被害はもたらさず「安全」かもしれない。でもいい気持ちではない。「安心」できない。「安全」と「安心」は似て非なるコンセプトなのだ。

繰り返す。公共のプールでは泳がないほうがいい。

そして結論:ウンコまみれのプールをきれいにするためにも、世界中にウォシュレットを普及させなければならない、と心で叫ぶ今日この頃である。