razoneヤギ群れ



毎年日付けが変わる移動祝日の復活祭。ことしは4月1日(明日)である。その前後の一週間ほどは学校を中心に春休みになる。

統計によると、ことしは1000万人以上のイタリア人が復活祭期の休みに旅行に出、それによって36億ユーロ(約4700億円)程度の消費が見込まれる。約90%はイタリア国内で過ごし、10%程度が外国旅行に向かう。

そうした数字だけを見れば、平和そのもののようなイタリアの復活祭だが、実はイタリア警察は、ここ1週間だけでもイスラム過激派関連の容疑で10人近くを拘束している。このうち5人は2016年、ベルリンのトラックテロで12人を殺害したアニス・アムリの仲間と見られている。

復活祭前後の春休みの間、カトリックの総本山・バチカンを始めイタリア中の観光地には訪問者があふれる。そこを狙ったイスラム過激派のテロが懸念されているのである。

先頃、マフィアが「イタリアでのテロを防いでいる」というヨタ話が日本で流布したと聞いた。しかし、マフィアはテロを防ぐのではなく、逆にそれを鼓舞するのだ。ヨタ話には気をつけたほうがいい。

テロリストと提携して社会不安を喚起したいのがマフィアだ。イタリア警察はこれまでのところ、テロリストをうまく抑え込んでいる。2017年だけでも132名の要注意人物を国外退去にし、ことしもこれまでに既に29名を同じ処置にしている。

英語のイースター、イタリア語でパスクアと呼ばれる復活祭は、イエス・キリストが死後3日後に甦った奇蹟を祝うキリスト教最大の祭りである。

非キリスト教徒の目には、イエス・キリストの誕生(誕生日っではな)をことほぐクリスマスが最大の祝祭に見える。が、復活祭こそキリスト教の最重要なイベントだ。

誕生はあなたにも僕にも誰にでも訪れる奇跡だが、「死からの復活」という大奇蹟は神の子であるイエス・キリストにしか起こり得ない。どちらが重要な祭事かは火を見るよりも明らかである。

食の国ここイタリアでは、復活祭にはクリスマス同様に多くの美味い食べ物が出現する。中でも卵そのものを使った料理や卵型チョコレートなど、卵関連の食品がよく食べられる。

卵はみずみずしい生命のシンボル。ヒナが堅い殻を破って生まれることを「キリストの死からの復活」になぞらえている。同時に全ての新しい命の芽生えをもたらす、春を祝う意味合いもある。

復活祭最大の「食のイベント」は、復活祭当日の各家庭での昼の大食事会。そこでは伝統的に子羊の肉料理がメインコースとして提供される。レストランなどで食べても同じである。

全ての人の罪を背負って、十字架で磔(はりつけ)にされたイエス・キリストは、「神の子羊」とも呼ばれる。子羊が生贄として神に捧げられたユダヤ教由来のコンセプトである。

復活祭に子羊の肉を食べるのは、人類のために死んだイエス・キリストを偲び、称える儀式の意味がある。子羊料理はやがて子ヤギ料理へと広がり、地域によっては後者がより多くなった。

僕はイタリアでは1年に1度、復活祭の日に子ヤギの肉を食べる習わし。それが祭の大きな楽しみでもある。子羊でもかまわないが、北イタリアの僕の住む地域では、子ヤギのほうがよく食べられる。

その習いが高じて、僕は地中海域を旅するときは、各地の子ヤギまた子羊料理を食べ歩くようになった。地中海域やバルカン半島の国々では、子羊や子ヤギがよく食べられ味もすばらしい。

いたいけな子ヤギ(子羊)を食するのは野蛮である。僕が復活祭の時期に必ず子ヤギ(子羊)料理に言及したくなるのは、その罪悪感故、という側面もないことはない。

ところが僕は自分の思いを「偽善」とみなす、もう一つの「思い」もまた胸中にかかえている。それらをできるだけ客観的に眺めてみると、どちらも正しくどちらも舌足らず、という風な結論になる。

つまり

豚や牛に始まるあらゆる動物の子供や成獣の肉を食らうのも野蛮である。それどころか野菜や果物を食するのも野蛮だ。動物も植物も同じ「生命(生物)」だからだ。

動物と植物は違う生命だ、と言う者がいたら、それは思い上がりである。われわれ人間には「今のところ」、動物と植物の《生命の違い》を正確に見極める術はない。

分かっているのは「動いて、食べるもの」が動物であり、「動かず、食べず、光合成を行う」ものが植物、ということぐらいだ。2つの「生命」については何も知らないと同じなのである。

植物が、特に野菜が、われわれに食べられるために殺されるとき、痛みを感じるかどうかをわれわれは判断できない。血も流れず悲鳴も発せられないが、植物は別の方法で苦痛を訴えているのかも知れない。

人間は人間以外の「生命を殺して食べる」生命である。それ以外には生存の方策がない。従って実はそれは野蛮でもなく、罪悪でもない。人間が「生きるとは殺すこと」なのである。肉食者も菜食主義者も変わりがない。

そうすると、生きるとは殺すこと、という自然の摂理を認めないことが野蛮であり罪悪である、という結論になるのかもしれない。

なぜならその摂理を認めない者、あるいは真理に気づかない者は、自らを棚に上げて他者の食習慣をなじる所業に陥ったりもするからである。例えば菜食主義者が肉食者を一方的に指弾するような。。。