伝わらない文意

僕が左肩脱臼と打撲の大ケガをしたのは、2007年のことである。

包帯ぐるぐる悲しい切り取り縦150
上半身包帯ぐるぐる”の写真を見た方々からのお見舞いコメントはありがたかった。が、少し戸惑いもした。負傷したのは、今も言ったように、ほぼ11年も前のことだからだ。



普通に文章を読めば障害は過去のことだと分かると思うのだが、書き手の僕のヘタの悲しさで、文意がうまく伝わらなかったようである。

いただいたコメントの中に「携帯なし、山中のなかからどうやって生還したのか気になります」という指摘があって、あ、と自分の思い込みに気づいた。

生還のいきさつはこれまでに何度も書いていて、僕にとってはすでに説明済みのことだったのだ。書き手の思い込みは要するに「文章のヘタ」と同義語である。

例えば2007年8月、僕はケガについて新聞のコラムに次のように書いた。

先日、南アルプスに川釣りに行って、左肩脱きゅうと打撲で全治一ヶ月余の大けがをした。

僕は釣りが好きである。かつては海釣り一辺倒だったが、海まで遠いイタリアの内陸部に居を構えてからは、近場の湖や川での釣りも覚えた。

今回は森林監視官で秘密の釣り場を多く知っているイタリア人の友人と2人で出かけた。クマも出没する2千メートル近い山中である。

険しく、緑深い絶景が連なる清流を上るうちに、なんでもない岩に足を取られて転倒した。肩に激痛が走って僕は一瞬気を失い、身動きができなくなった。救急ヘリを呼ぼうにも携帯電話は圏外で不通。たとえ飛んできても救助は無理と思われる深い谷底である。

友人に担がれるようにして沢の斜面をあえぎあえぎ登り、獣道のような隘路に出た。そこで彼が車を取りに行き、僕は悪化する肩の痛みとクマの恐怖におののきながら道脇に2時間近くうずくまっていた。

以来1ヶ月、僕は上半身をぐるぐると包帯で固められて、書斎兼仕事場にこもりきりである。

書斎兼仕事場は自家の葡萄園に面していて、今年は8月6日に始まったヴェンデミア(葡萄の一斉収穫)の様子をそこの窓から眺めた。本来は9月末のイベントであるヴェンデミアは、温暖化のせいで近年は異常に早くなった。地球は確実に何かに侵されている。

同様に、なんでもない岩に足を取られて転倒した僕の体も、もしかすると温暖化ならぬ「老残化」現象に侵され始めたのではないか、と窮屈で
「熱い」上半身を恨みながら少し憂うつになったりもする日々である。




火事場の≪肉体の≫馬鹿力

転倒後、沢の斜面を登って獣道にたどり着けたのは、今にして思えば奇跡的な出来事だった。屈強で且つ山に詳しい友人のマリオがいなければ、とても達成できなかっただろう。

斜面は急峻で、木々や草やその残骸、また土の盛り上がりや石塊や岩盤などの障害物で埋めつくされている。

友人のマリオは僕の体を時には支え、時には右腕だけでしがみつく相手を引き上げたりしながら、それらの妨害を掻き分けてひたすら上方を目指した。

僕は「火事場の馬鹿力」で彼によく並びまた追いて行った。必死のサバイバル行が呼び覚ました僕の中のエネルギーは、まさに「火事場の馬鹿力」だったのだと思う。

左肩の激痛と疲労に翻弄されながら、僕の決して強いとは言えない身体は、友人のマリオの勇猛で果敢な動きによく応えたのである。


火事場の≪精神の≫馬鹿力

実はその時の僕の中には、いわば精神の「火事場の馬鹿力」も沸き起こっていた。左肩とその周辺の痛みは、「耐え難い」という表現が侮辱に思えるほどの巨大な苦難だった。

僕は生還を目指して懸命に動きながら、胸中で(もう気絶するだろう)と繰り返し自らにつぶやいていた。同時にそこには、我慢の限界を超えた苦辛そのものを「客観的に見よう」、と努力している自分もまたいたのである。

言葉を変えれば僕は、覚めた意識で「痛みそのものを凝視しよう」と心魂を集中させていた。するとそこには開き直りに似た強さが生まれた。消極的な諦めの感情ではなく、飽くまでも痛みに向かって神経を集中させることからくる、いわば「攻めの強さ」だ。

激痛を感じつつ僕はその激痛を受け入れることで、あたかも痛みを感じない時の平穏な心の状態になっていた。

それは決して「痛みを感じない」とか「痛みに打ち勝った」とかいうことではなかった。いうなれば激痛は感じながら激痛に平然と対峙している、というような状況だったのである。

自分の中に秘められていた、その思いがけない「強さのようなもの」は僕をとても勇気付けた。

僕は臆病な人間であり、痛みに叫び声をあげる人間であり、それどころか痛みを怖れて逃げることさえ辞さない類の男だ、とずっと信じてきた。

それだけに自分の中にある 、いわば「肝っ玉」にも似た気力の存在は大きなおどろきであり、喜びだった。

科学的解説

「火事場の馬鹿力」とは科学的に説明すれば、緊急時に体内に満ちるアドレナリンによって運動能力が高まることである。それに伴って脳内に神経伝達物質の β-エンドルフィンが分泌され、痛みを感じることが少なくなると考えられている。

従って僕の心の動きはそうした身体の自然作用によって起こっていた、と結論付けることができるかもしれない。だが僕は意識を集中して「痛みを凝視しよう」と自分を鼓舞し、自身に確かに繰り返しそう語りかけてもいた。

その結果は、決して痛みが無くなったということではなく、いわば「僕の意識がその痛みと共生している」というふうだったである。痛みはあるが痛みに寄り添いつつそれに対抗してもいる自分が確実にいたのだ。

もっと言えば、アドレナリンや β-エンドルフィンは、僕の体内で勝手に分泌されたのではなく、僕が意識して痛みに立ち向かうことによって活性化された、とでもいうような感じがしてならない。

曖昧な記憶あるいは回想

急斜面をあえぎ登っていくときに僕の身体に満ちていた「「火事場の馬鹿力」 は前述の通りだが、実は僕の《精神の「火事場の馬鹿力」 》がどのあたりで生まれたのかは定かではない。

高く険しい斜面を上りきった後、僕は隘路脇の草に囲まれて2時間ほどうずくまっていた。その間じゅう僕は、やはり前述したように激痛を凝視し続けていたのだ。

マリオが車を回してきて、そこからさらに3時間近くかけて麓の救急病院に着いた。車の中でも、また病院で治療開始を待つ間も、僕は相変わらず精神を集中して痛みと対峙していた。

一連の心の動きは、斜面を登っている間に始まったのだと思うのだが、僕には正確な時間の記憶がない。それはおそらく崖を登りきるまでにどれくらいの時間がかかったか覚えていないことと関係がある。

僕の時間の記憶は、崖を登りきって隘路脇にうずくまるあたりから鮮明になるのである。痛み以外は全てが少し落ち着いて、僕は腕時計を見る気持ちのゆとりを取り戻したのだった。

エピローグ

あとになって斜面の登りにかかった時間を友人のマリオに訪ねると、彼も必死に動いていたのでよく覚えていない、としながらも「1時間程度ではないか」語ってくれた。おそらく妥当な長さだろう。

そうすると事故発生から治療開始までは、少なくとも6時間が経過していたことになる。あらゆる負傷がそうなのだろうが、脱臼は特に、すばやく治療をすることが完治への鍵だとされる。

事故発生から6時間という時間が影響したのかどうか、僕の負傷は癒えた後もリハビリに半年以上を要し、しかも肩は完全には元に戻らなかった。ほぼ11年が経過した今も痛みや違和感を覚えつつ過ごしている。

いずれにしても僕はそのケガのおかげで、自分の中にあるひそかな胆力(のようなもの)を発見し、釣り一辺倒だった自分の興味が大地の営みにも向かうという僥倖にもよくした。

左肩脱臼は僕にとって、字義通りの「けがの功名」だったのである。