david goodall
ほう助自殺を発表したグッドールさん



104歳のオーストラリアの科学者デヴィッド・グッドールさんが、高齢のあまり身動きもままならなくなった自らの命を絶つことを決め、スイスでそれを実行することになった。これを受けてオーストラリアでは、尊厳死また安楽死をめぐる議論が沸騰した。

グッドールさんは不治の病や限度を超えた苦痛など、尊厳死・安楽死の一般的な基準にもなる不幸な健康状態にあるのではない。だが当人によると体力の衰えによる生活の質の低下は我慢の度合いを超えており、もはや先行きに何の希望もないので死を決意したのだという。

グッドールさんはオーストラリアのExit International(尊厳死推奨会)の20年来のメンバー。あらゆる文明社会は人が自らの命を絶つ権利を保障するべき、と主張してきた。オーストラリアのビクトリア州では尊厳死・安楽死を認める法律が間もなく施行されるが、それは「不治の病に侵されて余命いくばくもない病人」だけに許されるものである。

本人の精神的苦痛が不治の病と同じレベルの耐え難いものであるにもかかわらず、肉体的には「高齢で体が不自由」というだけのグッドールさんには、ほう助自殺の権利を認めたビクトリア州の法律は適用されない。そこで彼はほう助による尊厳死・安楽死が認められているスイスでそれを行うことにした。

グッドールさんがほう助自殺を決意した直接の原因は、彼が自宅で突然倒れて意識を失い、2日間誰にも気づかれなかった「事件」だった。彼はそこまでに体の自由が徐々に奪われていく現実に遭遇していたが、ふいに全身が崩れ落ちた事件を受けて、医師に今後は1日24時間の介護が必要、と診断された。

グッドールさんは1979年に大学を退職した。しかしその後も活発な研究活動を続け、最近も世界の生態系に関する30シリーズにも及ぶ本の編集を終えたばかりだった。またグッドールさんはオーストラリアのエディス・コーワン大学のリサーチ部門の名誉リサーチャーも無報酬で務めてきた。

仕事ではつい最近まで成果を収めつづけ、また私生活でも充実した日々をすごしてきたグッドールさんだが、ここ2年ほどの間に急激に体力が衰えて不自由な生活をよぎなくされてきた。そこに死に向かって背中を押されるような自身の崩落事件が起きて「もはやこれまで」と自らに言い聞かせた。

僕はグッドールさんの逸話を三嘆の思いで受け止めた。尊厳死及び安楽死に賛成する者だからだ。安楽死・尊厳死に関しては多くの論考があり世界中で賛否両論がうず巻いているのは周知の事実である。僕はいわゆる「死の自己決定権」を支持し安楽死・尊厳死は公的に認められるべきだと考える。

ただしそれには、安楽死・尊厳死を求める本人が、意志表示のできる環境にあって、且つ明確にその意志を表明し、そのあとに安楽死・尊厳死を実行する状況が訪れた時、という厳然たる条件が付けられるべき、と考えている。

生をまっとうすることが困難な状況に陥った個人が、「自らの明確な意志」に基づいて安楽死、つまり自殺を要求することを拒むのは、僭越であるばかりではなく、当人の苦しみを助長させる残酷な行為である可能性が高い。

安楽死・尊厳死を容認するときの危険は、「自らの明確な意志」を示すことができない者、たとえば認知症患者や意識不明者あるいは知的障害者などを、本人の同意がないままに安楽死させることである。

そうした場合には、介護拒否や介護疲れ、経済問題、人間関係のもつれ等々の理由で行われる「殺人」になる可能性がある。親や肉親の財産あるいは金ほしさに安楽死を画策するようなことも必ず起こるだろう。

人の欲と弱さに起因するそうした不都合を限りなくゼロにする方策を模索しながら、回復不可能な病や耐え難い苦痛にさらされた不運な人々が、「自らの明確な意志」に基づいて安楽死を願うならば、これを公的に認めるべきである。

グッドールさんが自らの高齢と急速に衰えていく心身の活力に見切りをつけて、ほう助自殺の道を選んだ「健全な精神」に僕は深い敬意を覚える。そこで問題にされなければならないのは彼の自殺ではない。自殺の道を選んだ「彼の生き方」である。

いつ、どこで、いかに死ぬか、という自身では制御できない問いをあえて問うことはつまり、それが「いかに生きるか」という問いにほかならなからである。死は生を包括しないが生は死を包括する。あるいは生は死がなければ完結しない。死は生の一部にほかならないのである。

急速に高齢化がすすむ現代では、高齢者が死ぬリスクよりも、むしろ「無駄に長生きをするリスク」の方が高くなっている現実がある。それは、生を楽しまずにひたすら世の中を恨み愚痴を言い続けて生存したり、生きる屍のようにそこに横たわっているだけの、悲しく苦しい日々のことである。

そういう尊厳なき生に自ら終止符を打つことは決してネガティブな行為ではなく、むしろ「尊厳をもって生をまっとうしよう」とする前向きな行動である。この場合は「尊厳をもって生をまっとうしよう」とすることが、たまたま自殺だった、というだけである。

高齢化社会で「超高齢」になって介護まで必要になった者が、「自らの明確な意志」に基づいて将来の死を選択することができるかどうか。またそうすることは是か非か、という議論はこの先決して避けて通れない命題である。グッドールさんの選択は、その議論に一石を投じる「多くの類似の行為の一つ」に過ぎない。


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