
サルデーニャ島滞在中の2週間あまり、ブログ記事を一本投稿したきりでインターネットに触れなかった。滞在施設の部屋の中ではインターネットが使えなかったからである。
そこではレストランやカフェなどが集まっている公共の空間でしかWIFIが機能しなかった。そのためブログ記事の一つを投稿するにもわざわざそこまでPCを抱えて行かなければならない。
スマホでの投稿もできるのかもしれないが、僕はスマホを電話などの最小限の機能以外はOffにしている。自宅外では自由でいたいからだ。
最近は自宅の仕事場やプライベート空間でもインターネット(PC)に縛り付けられた生活をしている。読書の時間が極端に減ったことでもそれは知れる。
せめて外出の際にはインターネットから離れた生活をしたい、と考えて僕はスマホをほぼ「電話のみ」の使用にとどめる努力をしているのである。
PCを抱えてわざわざカフエやレストランまで出向くのはひどく億劫だった。そうやってインターネットにしがみつかない日々が続いた。気がつくと2週間がまたたく間に過ぎたのだった。
インターネットを使わない延長で、というのは正当な理由ではないが、「なんとはなしに」新聞にも手を出さなかった。施設の中に新聞の売店がなかったのも大きな原因だった。
そうやって情報収集という観点からは俗世間から隔絶された状態になって、トランプも北朝鮮も欧州の難民問題も、また杉田水脈なるカス国会議員のLGBT冒涜発言もなにもかも耳に入らなくなった。耳に入らくなっても全く問題ではなかった。むしろすがすがしい時間を過ごしていた。
トランプ大統領の言動や欧州難民問題あるいはイタリアのポピュリスト政権の動きなどは、W杯を観戦するテレビや人の噂話を介してさすがに少しは耳にしていたが、日本限定マターの水田議員発祥のLGBT問題に至っては、サルデーニャ島から帰還して後にようやく知ったくらいである。
インターネットに縛られないすがすがしい時間がもたらす気楽な心情は、気がついてみると世の中の動きを斜めに見る癖を自分の中に育んでいた。もっと直截に言えば「世の中の出来事などどうでもいい」という気分が強くなっていたのだ。
それは諦観に近い危険な心の動きである。「世の中なんてこんなものだ」と、悟りきったような気分に支配された時、人は文字通り心身ともに死に向かって歩みだす。諦観は死にもつながる危険な心理だ。
「諦観≒死」という表現が大げさならば、諦観は老化現象の一つ、と置き換えても良い。だがいずれにしても、老化とは「死に向かう歩み」の湾曲表現に過ぎない。諦観は心の平穏をもたらすプラスの効果も期待できるが、大勢はネガティブなコンセプト考えても良いのではないか。
僕はそのことに気づいて、自らを叱咤激励して怠惰な鈍(にぶ)りきった心情から脱出した、と言えば聞こえがいいが、実は帰宅してインターネットにアクセスし世の中の動きを追い始めたとたんに、怒りや不満や慨嘆が沸き起こってたちまち元の調子を取り戻していた。
それはインターネットの「功罪」のうちの功の一つだ。世の中の動きを楽に満遍なく見渡せる分、気持ちの張りが途切れない。一方、PCにしがみついて中毒患者のようにWEB上で時間を浪費してしまう罪の側面もある。
両者はコインの表裏のように切っても切れない関係である。従ってその事実を素直に受け入れて、中毒にならないように気をつけていくしかないのだろう。
中毒になりそうになったら一度インターネットから離れてみることだ。そうすると再びそこに戻ったときには頭がリフレッシュされて状況がさらによく見えるようになる。
僕は今回のサルデーニャ紀行を通して偶然にそのことを発見した。働きづめの人間には休暇が必要であるように、インターネット漬けの者にも「WEB休暇」が必須なのだと思う。
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