サルデーニャ正式州旗(1999年)WIKI

1999年に正式認定されたサルデーニャ州旗




イタリア・サルデーニャ島には4人の黒人の横顔をあしらった独特の島旗がある。イタリア語で「Quattro mori(4人のムーア人)」と呼ばれるその旗を、島人は州旗と称し「国旗」とも表現する。

日本の四国よりも少し大きなサルデーニャ島は、付随する離島と共にイタリアの20州のうちの一つの州を形成している。従って旗が州旗と呼ばれても何ら問題はない。むしろそれが正しい呼称だろう。

だがそれを「国旗」と呼ぶと、意図するコンセプトに深刻か否かの違いはあるかもしれないが、発言した者は明確な動機に基づいてそれを口にしている。

つまりサルデーニャ島民が発言する場合はそれは、イタリア共和国からのサルデ-ニャ島の「独立」を意味する文脈で語られているのである。

島民の独立志向は島の苦難の歴史の中から自然発生的に出てきたもので、一時期は大きなうねりとなってイタリアを揺るがせたこともある。が、現在は静まった。しかしそれはサルデーニャ島民の心が静まったことを意味するものではない。

島がたどってきた複雑な歴史や、当事者たちの複雑な心境、また島人の不満とイタリア本土人の無関心、など、などという世界では割とありふれた現象が、当事者中の当事者である島人の心を鋭く抉らずにはおかないのは、それが彼らのアイデンデンティティーの根幹に関わる重大事案だからである。

起源

スペインのアラゴン王国、イタリア半島のピエモンテに本拠を置く「大陸の」サルデーニャ王国、そして最後にサルデーニャ島自身のシンボル旗となった4人のムーア人の旗は、ひとことで言えば、キリスト教徒とイスラム教徒の血みどろの長い厳しい闘争が原因で誕生した。

具体的に言えば、旗の意匠はスペインのアラゴン王国が1096年、侵略者のムーア人つまりアラブ・イスラム教徒を撃退し4人の将軍の首を落として戦勝を祝った、とする伝説に基づいている。それを示す古い絵柄では4人の顔が目隠しされている。捕らえた敗軍の将に目隠しをして首を切り落とすのは、洋の東西を問わず戦国の世の習いだった。日本の戦国時代でも敵の首を切り落として戦利品とした。

アラゴン王国軍はその大きな戦を聖ゲオルギウス(英:聖ジョージ)の手助けで勝利した、と言い伝えられている。4人のムーア人の顔と共に聖ゲオルギウスの象徴である白地に赤い十字が旗に描かれているのはそれが理由である。

またムーア人の4つの顔は、アラゴン王国が4つ大きな戦争、即ちサラゴザ、ヴァレンシア、ムルシア、バレアリス諸島での戦いに勝利したことを表す、という説もある。そこに十字軍のシンボル的な存在でもある前述の聖ゲオルギウスの伝説がからんだ、と主張するものである。

しかし最も多く語られるのは、アラゴン王国がアルコラスの戦いに勝利した際、4人のムーア人将軍の首を切り落として祝った、とする前述の説である。宿敵のイスラム教徒への怨みと怒りがこもったその主張の方が、信憑性が高い、と僕も思う。

意匠の変遷

旗のデザインと成り立ちに関しては、伝説と史実が入り乱れた多数の説がほかにも存在する。史実の最も古い証拠としては、1281年に作られたとされる鉛製の封印がある。そこに描かれたムーア人は髭を蓄えていて鉢巻をしていない。

14世紀にサルデーニャ島がアラゴン王国の支配下に入ると、4人のムーア人の絵柄は、サルデーニャ島でもあたかも島独自のもののように使われた始めた。そして1380年頃には4人のムーア人旗はアラゴン王国統治下の島の旗と認定され、サルデーニャ軍は1571年、鉢巻をした4人が右を向いている図柄を記章として採用した。

以後、ムーア人の図柄は額に鉢巻をしたりしなかったり、頭に王冠が描かれたり、髭を蓄えていたり、目隠しをされたり、顔が左に向いたり逆になったり、肌が白く描かれたり等々、様々に変化して伝えられた。アラゴン王国は最終的にオリジナルの絵柄を尊重して、頭に鉢巻を巻いたものが正しい、という触れを出した。

島民の抵抗

1720年、サルデーニャ島はシチリア島との交換でアラゴン王国からサヴォイア公国に譲り渡された。以後サヴォイア公国は国名を「サルデーニャ王国」に変えて島を支配するが、同王国の本拠はフランスの一部とイタリア本土のピエモンテが合体した大陸だった。王国の首都もピエモンテのトリノに置かれた。そして1800年、4人のムーア人の鉢巻が目隠し姿に変わった図柄の旗が出回るようになった。

これはイタリア本土を本拠地にするサヴォイア家が、サルデーニャ島を獲得したことをきっかけに自らの領土をサルデーニャ王国と称し、支配地の島に圧政を敷いたことに対する島民の抵抗の現れだった。目隠しの絵柄は、鉢巻姿だった古い旗の意匠をわざと間違えて伝え残したもの、とも言われている。

さらに、旗の原型はアラゴン王国にあるとはいえ、4人のムーア人旗はアラゴン統治以前のサルデーニャ島の歴史を物語るとされる説もある。その当時サルデーニャ島には ガルーラ、ログドーロ(トーレス)、アルボレア、カリアリという4つの小さな独立国があり、それぞれが頑張ってイスラム教徒の侵略から島を守ったとされる。4人のムーア人はその4国を表すというものである。

だがその主張は島人たちの希望的憶測あるいは願望に過ぎないと僕は思う。彼らには侵略者のイスラム教徒を撃破する軍事力はなかった。8世紀からイベリア半島を蹂躙し支配したイスラム教徒は、破竹の勢いで地中海の島々も配下に収めていった。サルデーニャ島の住民は、他の被征服地の住民同様に、欧州のキリスト教勢力がイスラム教徒を撃破するまで身を縮めるようにして生き延びた、というのが歴史の真相である。 

サヴォイア家支配下の1800年頃から島に多く出回るようになった目隠しの図柄はその後も広がり続け、サヴィオア家の支配が終わり、2つの大戦を経て、イタリアが近代化し成熟社会を迎えた20世紀終わりまで続くことになる。

1950年、4人のムーア人旗はサルデーニャ州(島)の正式フラッグと認定された。そこでは4人はまだ目隠しをしたままだった。そして1999年、4人の顔は目隠しではなく額に鉢巻をし、且つ旗竿を左に右向きの横顔であること、とこれまた正式に改訂された。

屈折

何世紀にも渡って物議をかもし続けたムーア人旗の絵柄やコンセプトの変遷を見ると、僕は大きな感慨を覚えずにはいられない。すなわち、サルデーニャ島民がかつての支配者のエンブレムを自らのそれと認識し、且つ絵柄の中心である4人のムーア人をあたかも自らの肖像でもあるかのように見做している点である。

そこには2重の心理のごまかしがある。一つはアラゴン家及びサヴォイア家の紋章を引き継ぐことで、自らも支配者になったような気分を味わっていること。また戦いに負けて首を落とされて以降は、いわば被害者である4人のムーア人にも自らを重ね合わせて英雄視している点だ。

彼らは支配者であると同時に支配される者、つまり被抑圧者でもあると主張しているのである。僕は前者にサルデーニャ島民の事大主義を、また後者に同じ島民の偽善を感じないではいられない。僕の目にはそれは、抑圧され続けた民衆が往々にして見せる悲しい性であり、宿命でさえあり、歴史が悪意と共に用意する過酷な陥穽、というふうに見えなくもないのである。


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