ロゼッタ墓ヒキ800



霊魂を慰めるイタリアの盆は昨日、すなわち11月2日である。それは 一般に
「死者の日」と呼ばれる万霊節。プロテスタントでは聖徒の日である。

カトリックの教えでは、人間は死後、煉獄の火で責められて罪を浄化され、天国に昇る。その際に親類縁者が教会のミサなどで祈りを捧げれば、煉獄の責め苦の期間が短くなる、とされる。

それは仏教のいわゆる中陰で、死者が良い世界に転生できるように生者が真摯な祈りを捧げる行事、法要によく似ている。

万霊節には死者の魂が地上に戻り、家を訪ねるという考えがある。イタリアでは帰ってくる死者のために夜通し明かりを灯し薪を焚く風習もある。

また死者のためにテーブルを一人分空けて、そこに無人の椅子を置く家庭もある。食事も準備する。むろん死者と生者が共に食べるのが目的である。

イタリア各地にはこの日のために作るスイーツもある。甘い菓子には「死の苦味」を消す、という人々の思いが込められている。

それらの習慣から見ても、カトリック教徒の各家庭の表現法と人々の心の中にある「死者の日」は、日本の盆によく似ていると感じる。

10月31日から11月2日までの3日間も、偶然ながら盆に似ている。盆は元々は20日以上に渡って続くものだが、昨今は迎え火から送り火までの3日間が一般的である。

10月31日のハロウィン、11月1日の諸聖人の日、翌2日の万霊節(死者の日)と宗教祭礼が続く日々が、盆の3日間に似ている、と思うのである。

3つの祭礼のうちハロウィンは、キリスト教本来の祭りではないため教会はこれを認知しない。が、一部のキリスト教徒の心の中では、彼らの信教と不可分の行事になっていると考えられる。

人々は各家庭で死者をもてなすばかりではなく、教会に集まって厳かに祈り、墓地に足を運んでそれぞれの大切な亡き人を偲ぶ。

昨日、僕も6月に亡くなった義母の墓参りをした。義母の新盆、という意識があった。十字架に守られた墓標の前に花を供え、日本風に手を合わせたが、少しも違和感はなかった。

義母は先年、日本の敬老の日を評価して「最近の老人はもう誰も死ななくなった。いつまでも死なない老人を敬う必要はない」と一刀両断、脳天唐竹割りに断罪した荒武者である。

義母の言う「いつまでも死なない老人」とは明らかに、「ムダに長生きをして世の中に嫌われながらも、なお生存しつづけている厄介な高齢者」という意味だった。

当時89歳だった義母は、その言葉を放った直後から急速に壊れて、彼女自身が「いつまでも死なない」やっかいな老人になった。

今考えれば「いつまでも死なない老人」と言い放ったのは、壊れかけている義母の底意地の悪さが言わせた言葉ではないか、という気がしないでもない。

義母は娘時代から壊れる老人になる直前まで、自由奔放な人生を送った。知性に溢れ男性遍歴にも事欠かなかった彼女は、決してカトリックの敬虔な信者とは言えなかった。

死して墓場の一角に埋葬された義母は、それでも、十字架に守られ僕を介して仏教思念に触れて、盆の徳にも抱かれている、と素直に思った。

何らの引っかかりもなく僕がそう感じるのは、恐らく僕が自称「仏教系の無心論者」だからである。僕は宗教のあらゆる儀式やしきたりや法則には興味がない。心だけを重要と考える。

心には仏教もキリスト教もイスラム教もアニミズムも神道も何もない。すなわち心は汎であり、各宗教がそれぞれの施設と教義と準則で縛ることのできないものだ。

死者となった義母を思う僕の心も汎である。従ってカトリックも仏教も等しく彼女を抱擁する。僕の心がそれを容認するからだ。僕は勝手にそう思っている。

カトリックの宗徒は、あるいは義母が盆の徳で洗われることを認めないかもしれない。いや恐らく認めないだろう。一神教の窮屈なところだ。

仏教系無心論者の僕は、何の問題もなく義母が仏教に抱かれ、イエス・キリストに赦され、イスラム教に受容され、神道にも愛される、と考える。

それを「精神の欠けた無節操な不信心者の考え」と捉える者は、自身の信教だけが正義だ、というドグマに縛られている。

だが、一神教だけが正道ではないのだ。他者を認めないそれはむしろ邪道、という考え方もあると思うのである。


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