ウーゴさんと。。(ペルーのリマで)
はじまり
カトリック系の慈善団体「マト・グロッソ」のウーゴさんが94歳で亡くなった。
ウーゴさんとは、人生のほとんどを他人のためだけに生きてきた清高な男、カトリック・サレジオ(修道)会のウーゴ・デ・チェンシ神父のことである。
「ウーゴさん」と人々に愛称された彼はイタリア北部の生まれ。宣教師としてブラジルに行ったことがきっかけで、土地の名前を取ったマト・グロッソ」という慈善団体を立ち上げた。
「マト・グロッソ」はイタリア国内で年々発展を遂げ、多くのボランティアを南米各国に派遣するなど、広範囲にわたって慈善事業を展開している。
マトグロッソは特に南米のペルーで大きく成長。今では同国で第2位の資産を有するまでになり、その資産を活用して事業を起こし、ペルー人を雇用し、貧者を支援する。
中でも貧しい青少年たちへの支援を中心に、学校事業や社会事業に多大な労力を注いで成果を挙げている。
いきさつ
妻がマト・グロッソと関わっている関係で、わが家ではほぼ毎年マト・グロッソ主催のチャリティーコンサートを開いてきた。募金集めのために食事会を催したりもする。
住まいの由来がかつての貴族館という珍しい広い場所であるため、庭園や屋内で多くの聴衆を受け入れてイベントを開くことができるのである。
2011年には僕が表に立って、わが家で東日本大震災支援のチャリティーコンサートを開いた。その時に協力してくれたのもマト・グロッソのボランティアの皆さんだった。
ウーゴさんを訪ねて
先年、Bresciaマト・グロッソの責任者のブルーノ夫妻と共に、ウーゴ神父を訪ねてペルーに行った。同国でのマト・グロッソの活動地域はほとんどが山中の貧しい場所である。
ペルーにはアンデス山脈、アマゾン川、ナスカの地上絵、マチュピチュ等々、魅惑的な観光スポットが多い。
旅では標高約5千メートルの峠越え3回を含む、3700メートル付近の高山地帯を主に移動した。言うまでもなくウーゴさんとマトグロッソの活動を見聞するためだ。
目がくらむほどに深い渓谷を車窓真下に見る、死と隣り合わせの険しい道のりや、観光客の行かない高山地帯の村や人々の暮らしは、全てが鮮烈で面白かった。
面白いとは、旅人の僕のノーテンキな感想で、ウーゴさんとマトグロッソのボランティアたちは、日々厳しい慈善事業に精を出していた。
フィアットよりも大きな会社?
「イタリア最大の産業はボランティア」という箴言がある。イタリアのみならず欧米諸国の人々は概してボランティア活動に熱心だ。
イタリアの場合は、カトリックの総本山バチカンを身内に抱える国らしく、欧米の平均に輪を掛けて人々が活動に一生懸命のような印象を受ける。
この国の人々は、猫も杓子もという感じで、せっせとボランティア活動にいそしむ。博愛や慈善活動を奨励するローマ・カトリック教会の存在がやはり大きいのだろう。
奉仕活動をする善男善女の仕事を賃金に換算すれば、莫大な額になる。まさにイタリア最大の産業である。
「マト・グロッソ」のウーゴさんは、さしずめイタリアのその巨大産業の元締め、あるいは象徴的な存在の一人である。
チャリティーってなに?
チャリティーなんて金持ちやひま人の道楽、と考える人も世の中には多い。それは日々の暮らしに追われている、豊かとばかりも言えない人々の正直な思いだろう。
だが、チャリティーは実は、貧富とは関係のない純粋な自己犠牲行為である。次の統計の一つもそれを物語っている。
慈善活動をする世界の人々のうちのもっとも裕福な20%の層は、収入の1、3%に当たる額を毎年寄付に回す。
一方 慈善活動をする世界の人口のうちのもっとも貧しい20%の人々は、彼らの収入の3、2%を寄付に回している。金持ちは貧乏人よりもケチなのだ。
他人の為に何かをするという行為は尊いものだ。自己犠牲の精神からはほど遠い、俗物然とした心意しか持ち合わせのない僕などは特にそう思う。
一つの例を言えば僕は、東日本大震災支援コンサートを一緒に手伝ってくれた「マトグロッソ」の皆さんには、頭が下がる思いがしてやまない。彼らは「継続して」人のために活動をしているからだ。
思い続ける難しさ
たとえば災害時などに提供する義援金は、一度寄付をすればそこで終わりだが、
「被災者を忘れない」という思いをずっと胸に抱き続けるのは難しい。
思い続けることはいたわりになり、それは行動になる。ボランティアやチャリティーも同じだ。「続ける」ことが重要で、しかもそれはたやすいことではない。
災害の被災者だけではなく、世界中の貧しい子供たちや不運な人たちを思い続けること。それが本物のボランティアやチャリティーの核心だ。
そうはいうものの、「にわかボランティア」や「にわか慈善行為」は、もちろんそれ自体がとても大切なことだ。何はともあれ被災者や被災地に思いを寄せることだからだ。
そしてボランティアや慈善行為を「続ける」ことができれば、さらにもっとすごいことだ。だが、たぶん続けられる人はそれほど多くはない。皆忘れる。「他人を心に思い続ける」のは至難の業だ。
ゴルファーの藍ちゃんの失敗
チャリティーの精神を考えるとき、いつも頭に思い浮かぶエピソードがある。
東日本大震災の直前に、アメリカの女子プロゴルフ界がチャリティーコンペを主催した。チャリティーコンペだから賞金が出ない。賞金は全てチャリティーに回されるのだ。
多くの欧米人プレーヤー参加したものの、宮里藍、上田桃子、宮里美香の日本人トッププレーヤー達は参加しなかった。賞金が出ないからだ。
ところがそのすぐ後に、東日本大震災が起こってしまった。すると日本人3人娘が被災地のためにチャリティーコンペをしようと呼びかけた。
それは良いことの筈だが、当時アメリカでは大変な不評を買った。残念ながら彼女たちは、身内のことには必死になるが、他人のことには鈍感で自分勝手、と見破られてしまったのだ。
自分や身内や友人のことなら誰でもいっしょうけんめいになれる。慈善やチャリティーやボランティアとは、全くの他人のために身を削る尊い行為のことである。
それは特に欧米社会では盛んで、有名人やセレブや金持ちたちには、普通よりも大きな期待がかけられる。
チャリティー活動が盛んではない国・日本で育った3人の日本人娘は、トッププレーヤーにはふさわしくない大失態を演じてしまった。
しかしその後、彼女たちは懸命に頑張ってチャリティー活動を行い、1500万円余りの義援金を被災地に寄付したことは付け加えておきたい。
それは「身内の日本人」被災者への思いやりで、彼女たちが「身内でない者」のためにも同じ気持ちで頑張るかどうか分からない、などと皮肉を言うのはやめよう。身内のためにさえ動かない者がいくらでもいるのだから。
見返りを求めるチャリティーはない
チャリティー活動になじみのない日本人にありがちな、気をつけなければならないエピソードは、実は僕の身近でも起こる。
わが家で催したチャリティーイベントで、多くの飲食物が提供された。ところが、事前に告知されていたローストビーフが手違いで提供されなかった。このことに怒った人々が担当者を突き上げた。
実はそうやって強くクレームをつけたのは残念ながら日本人のみだった。そこで大半を占めていたイタリア人は、一言も不平不満を言わなかった。
彼らはチャリティーとは得る(ローストビーフを食べる)ことではなく、差し出す(寄付する)ものであることを知りつくしていたからだ。
イタリア人は、カトリックの大きな教義の一つである慈善やチャリティーの精神を、子供のころから徹底的に教え込まれる。
そうした経験がほぼゼロの多くの日本人にとっては、得るもの(食べ物)があって初めて与える(支払う)のがチャリティー、という思い違いがあるのかもしれない、と僕はそのとき失望感と共にいぶかった。
一方、マトグロッソという慈善団体を立ち上げ、大きく育て、常に他人を思い利他主義に徹した「ウーゴさん」の尊い精神は、彼を慕うボランティアたちを介して今後も生き続けることが確実である。
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