高穴海ヒキ800
2018年クリスマス当日の島の海、風雨強く寒かった



25年ぶりに年末年始を日本で過ごしている。正確には故郷の沖縄で。

大小の喜びや驚きや発見を楽しんでいるが、これまでのところ特に大きな2つの発見があった。

一つは沖縄の寒さ。12月の半ばに東京経由で沖縄に着いた。直後の2日間は夏日に近い気温だった。ところがそれ以後は温度が下がり、風雨が強まって連日寒い。

低温とはいうもののせいぜい14℃。良く下がって13℃程度だ。ところが風が強いため体感温度がひどく低い。そこに冷たい雨の追い打ち。震える寒さになる。

また屋内でも、暖房設備がないために、空気や床や壁が冷えている。イタリアを出た日の最低気温は-4℃だった。大げさではなく、イタリアの-4℃の方が沖縄の今よりも暖かったような気さえする。

むろんそこには大きな心理的な要因が作用している。暖かいのが当たり前のはずの沖縄の寒さは、驚きと「ガッカリ」のダブルパンチを伴って胸を撃ち、それが物理的冷温と相まってさらに寒さが増幅される。

僕の場合には特に「ガッカリ」の差し響きが大きく、寒さの度合いがますます深まってしまう。そうなると気分に反映される冷寒がほとんど大げさな領域にまで到達するのである。

なにしろ「沖縄旅行の最適な季節はいつ?」と聞かれると「断ぜん冬。なぜなら冬がないから」と答えるほど沖縄の暖かい冬を愛している僕には、寒い沖縄などもってのほかなのだ。

もう一つの大きな発見はクリスマスの無意味さ。日本におけるクリスマスはいわば「空(くう)」という驚きである。

過去25年間、イタリアで過ごすクリスマスでは宗教や信仰や神について考えることがよくあった。考えることが僕の言動を慎重にし、気分が宗教的な色合いに染められていくように感じた。

それは決して僕が宗教的な男だったり信心深い者であることを意味しない。それどころか、僕はむしろ自らを「仏教系無神論者」と規定するほど俗で不信心な人間である。

だが僕は仏陀やキリストや自然を信じている。それらを畏怖すると同時に強い親和も感じている。ここにイスラム教のムハンマド を入れないのは僕がイスラム教の教義に無知だからだ。

それでも僕はイスラム教の教祖のムハンマドは仏陀とキリストと自然(神道核)と同格であり一体の存在でありコンセプトだと信じている。いや、信じているというよりも、一体あるいは同格の存在であることが真実、という類の概念であることを知っている。

ところが、そうやって真剣に思いを巡らし、ある時は懊悩さえするクリスマスが、まさにクリスマスを日本で過ごすことによって、それが極々軽いコンセプトに過ぎないということが分かるのである。

当たり前の話だが、クリスマスは日本人にとって、西洋の祭り以外の何ものでもない。つまり、それは決して「宗教儀式」ではないのである。従ってそこにはクリスマスに付随する荘厳も真摯もスタイルもない。

なぜそうなのかといえば、それは日本には一神教の主張する神はいないからである。日本にいるのは八百万の神々であり、キリスト教やイスラム教、あるいはユダヤ教などの「神」は日本に到着すると同時に八百万の神々の一つになる。

言葉を変えれば、一神教の「神」を含むあらゆる"神々"は、全て同級あるいは同等の神としてあまねく存在する。唯一神として他者を否定してそびえたつ「神」は存在しない。

一神教の信者が言いつのる「神」、つまり唯一絶対の神は日本にはいない、とはそういう意味である。「神」は神々の一、としてのみ日本での存在を許される。

自らが帰依する神のみならず、他者が崇敬する神々も認め尊重する大半の日本人の宗教心の在り方は、きわめて清高なものである。

だがそれを、「日本人ってすごい」「日本って素晴らし過ぎる」などと 日本人自身が自画自賛する、昨今流行りのコッケイな「集団陶酔シンドローム」に組み込んで語ってはならない。

それというのも他者を否定するように見える一神教は、その立場をとることによって、他の宗教が獲得できなかった哲学や真理や概念―たとえば絶対の善とか道徳とか愛など―に到達する場合があることもまた真実だからだ。

また一神教の立ち位置からは、他宗教もゆるやかに受容する日本人の在り方は無節操且つ精神の欠落を意味するように見え、それは必ずしも誤謬ばかりとは言えないからだ。

あらゆる宗教と教義には良し悪しがあり一長一短がある。宗教はその意味で全て同格でありそれぞれの間に優劣は存在しない。自らの神の優位を説く一神教はそこで大きく間違っている。

それでもなお、自らの「神」のみが正しいと主張する一神教も、あらゆる宗教や神々を認め尊重する他の宗教も、そうすることで生き苦しみ悩み恐れる人々を救う限り、全て善であり真理である。

日本人は他者を否定しない仏教や神道やアニミズムを崇めることで自から救われようとする。一神教の信者は唯一絶対の彼らの「神」を信奉することで「神」に救われ苦しみから逃れようとする。

日本には一神教の「神」は存在しない。従ってそこから生まれるクリスマスの儀式も実は存在しない。日本人がクリスマスと信じているものは、西洋文明への憧憬と共に我われが獲得したショーとしてのクリスマスでありクリスマス祭なのである。

それはきわめて論理的な帰結だ。なぜなら宗教としての定式や教義や規律や哲学や典儀を伴わない「宗教儀式」は宗教ではなく、単なる遊びであり祭りでありショーでありエンターテインメントだからである。

それは少しも不愉快なものではない。日本人はキリスト教の「神」も認めつつ、それに附帯するクリスマスの「娯楽部分」もまた大いに受容して楽しむ。実にしなやかで痛快な心意気ではないか。



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