600則①



《書こうと思いつつ優先順位が理由でまだ書けず、あるいは他の事案で忙しくて執筆そのものができずに後回しにしている時事ネタは多い。僕にとってはそれらは「書きそびれた」過去形のテーマではなく、現在進行形の事柄である。過去形のトピックも現在進行形の話題もできれば将来どこかで掘り下げて言及したいと思う。その意味合いで例によってここに箇条書きにしておくことにした。とはいうものの、これまでではそうやって記録しておいたテーマを改めてじっくりと考察し書き上げたものは少ない。次々と書くべき題材が増えていくからだ。それは刻々と過ぎる時間と格闘するSNSでの表現の良さであり同時に欠点である。ともあれ時事ネタを速報するのが目的ではなく、それを観察し吟味して自らの考えを書き付けるのが僕のブログのあり方なので、『いつか書くべきテーマ』というのは自分の中ではそれなりに意味を持つのである。いつも、「いつか実際に書く」つもりでいるので。。。》

1.サルヴィーニ副首相と安倍首相は一卵性双生児
イタリアのマッテオ・サルヴィーニ副首相は日本の安倍晋三首相に似ている、とよく思う。2人の見た目はひどく違っている。サルヴィーニさんはネクタイ姿が全く似合わない、いわばワイルドな野獣。一方の安倍さんは育ちの良さがにじみ出た都会風の紳士である。でも2人の腹の中身は同じ。極論者は右も左も言動が酷似して区別がつかなくなるが、当事者たちは彼我は大いに違うと考えそう主張する。そのあたりはある意味で正直だ。サルヴィーニ同盟党首兼副首相は、そういう正直な政治家である。安倍首相にはその点での真率がない。そして怖いのは、彼自身が意識して腹の中身を隠すのではなく、首相自身の人となりが腹の中身を自然に消し去るふうに見える点だ。だが彼は、サルヴィーニ同盟党首兼副首相に酷似した危うい政治家である。

2.「ボヘミアン・ラプソディ」
昨年末、「ボヘミアン・ラプソディ」を観た。実はいろいろな場所でいろいろな人がいろいろなことをケンケンガクガク言ってることに触発されて映画館まで足を運んだ。結論を言えば、おおいに楽しんだ。映画の王道を行っていると思った。 「ボヘミアン・ラプソディ」は普通に優れたエンターテインメント映画だ。ただそれだけなのに、いろいろと理屈っぽい人たちがウンチクや分析や考察やダメ出しを、衒学的な表現を用いたり,なまはんかな知識を振り回したりして、あれこれとへ理屈を開陳しているのを面白がった。かなり前の話になるが、スーパーマン(1978年の映画)が世に出たとき、シチリア人の友人がバカバカしい映画で全くつまらんと憤慨したのを思い出した。「ボヘミアン・ラプソディ」を否定的に語る人々は僕のその友人に似ている。

3.台湾~不潔な楽園
台湾の魅力と不衛生力について。台湾は楽しい島だが不潔な印象も強い。彼我の衛生観念の相違はおそらく中国本土との比較にも当てはまることだろう。そう考えると僕は中国旅行への興味をすっかり殺がれてしまった。それでも台湾が好きなことに変わりはない。離島で生まれ育った僕には、島の文化やあり方や「島人」のメンタリティーが結構分かる、と自負している。それは台湾の場合も同じ、と感じる。

4.ノーベル賞文学の退屈は純文学の退屈と同じ。
カズオ・イシグロの作品は、初め数ページ読んで挫折。しかし、なぜ退屈かを見極めるために拷問を承知で読破することにし、本当に読破した。すると静謐な筆致が好ましいと分かった。執事という英国の文化に触れた喜びもあった。だがいわゆる純文学に属する文体とテーマと細部フェチの全体像は、やはりつまらない。ノーベル賞の作家に共通する退屈が満載である。つまり「特殊」な文学ジャンルに属する作品なのだ。その特殊な文学ジャンルのノーベル賞作家で、僕にとって唯一面白いのはガルシア・マルケスだけ。川端康成も大江健三郎もその観点で言えば実はつまらない。

5.「流転の海」完結をことほぐ
宮本輝の長編小説の完成は日本文学の金字塔とも形容されるべき偉業だと思う。骨太の人間ドラマを僕は楽しみつつ学びつつ読み続けてきた。多作の天才の一人である宮本輝は、カズオ・イシグロよりも優れた物書きだ。「ノーベル賞系」の作家ではないから、ノーベル賞をもらう可能性は非常に低いが、ノーベル賞が「優れた作家・作品に与えられる賞」と世の中に思い込まれていることを思えば、彼にもぜひその賞を授与してほしい、と思う。僕の宮本輝体験は芥川賞受賞作品の「蛍川」始まり、オムニバス長編「夢見通りの人々」のうちの“肉の鏡”によって決定的に重要になった。 流転の海はまだ6巻までしか読んでいない。食事の際おいしいものをよけておいて、「後で食べる喜び」をかみしめるように、最後の3巻のページを開かないまま眺めたり想像したりして楽しんでいる。

6.銃の重さ
銃を扱う訓練を始める計画である。1994年、イタリア、シチリア島で長期ロケをしていたとき、仕事の合い間をぬってカメラマンのマッシミリアーノ・Tの自宅に招待された。そこは偶然にも、反マフィア闘争の英雄パオロ・ボルセリーノ判事が1992年にマフィアに爆殺されたダメリオ通りにあった。そこでTが合法的に取得・登録済みだという拳銃を見せてくれた。護身用だという。実弾も装填されているそれを手に取ったとき、ずしりと重い感触がそのまま強い不安感に変わった。今にも暴発しそうなイヤな感触だった。僕は引き金に指を掛けた訳でもなくグリップさえ握らずに、銃を寝かせたまま全体を手の平に乗せて軽く包み込むように持っているだけである。怖い気分、イヤな感じはそのまま残った。それは僕の屈辱になった。人間が作った道具を僕はそれへの無知ゆえに激しく恐怖した。それが僕に屈辱感を与えた。武器に関わる恐怖心の実相は二つある。一つは武器と武器を持つ人間とが犯す事件やその可能性への恐怖。もう一つは武器そのものへに恐怖である。これは「知らない」ことから来る恐怖だ。僕はその恐怖を克服するために武器を勉強することにした。まず猟銃から始めた。猟をする気は毛頭ないが、素人には猟銃のほうが扱いやすい、という友人の軍警察官のアドバイスに従った。そうやって猟銃は平穏に扱えるようになった。これから拳銃の訓練を受ける予定である。恐怖の克服が第一義の理由だが、イタリアの特殊な家に住んでいる僕の私的な事情と、将来あり得るかもしれない状況に備える意味も、実はひそかに思っている。

7.イタリアでテロが起きない理由(わけ)
欧州ではイスラム過激派によるテロが相次いでいる。もしかすると収まったのかと見えていた2018年12月12日、フランスでイスラム過激派によるテロがまたもや起きた。容疑者は拳銃やナイフで通行人を襲い、2人が死亡10数人が重軽傷を負った。フランスでは2015年に130人が死亡するISのテロが発生するなど、繰り返しイスラム過激派の脅威にさらされている。英独ほかの欧州主要国なども同様だ。その中で執拗な襲撃予告を受けながらもイタリアは今のところテロを回避できている。意外に見えるかもしれないがそれはイタリア警察が有能であることの証である。イタリア警察はテロ防止を目指して熾烈な闘いを続けている。

8.お騒がせな五つ星運動?
イタリア連立政権の一翼を担うポピュリストの五つ星運動は、突飛な主張やキャンペーンを繰り広げて人心を騒がせると同時にそれを掌握するにも長けた政党である。五つ星運動所属でローマ史上初の女性市長、ヴィルジニア・ラッジ氏も自らの政党を代弁するような驚きの言動に事欠かない。その一つがヤギや羊やその他の動物を市内の公園や歴史的建造物の庭園に放牧して、草や木々の葉を食べさせて清掃させようという考え。財政難が続く永遠の都の台所を救い環境保護にも役立てる、と主張した。五つ星運動と犬猿の仲の前政権与党民主党は、ゴミをカモメに食べてもらうアイデアに続くラッジ市長の懲りない荒唐無稽な言動、と一笑に付すと同時に、彼女は次は蚊退治のためにヤモリの大群をローマに導入しようと言い出すに違いない、などと嘲笑している。でもカモメやヤモリはさておくとして、ヤギや羊に公共の施設の草を食べてもらう、というのは悪い考えではないかもしれない。。。



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