
2019年2月14日、 いわゆる“愛の誓いの日 ” とされるバレンタインデー に、 日本の 13組の同性カップルが国を相手取って「ようやく」同性婚訴訟を起こした。「ようやく」と表現するのは、日本がいわゆる先進7ヵ国の中で同性婚を認めない唯一の国だからである。
同性愛者が差別されるのは、さまざまな理由によるように見えるが、実はその根は一つである。
つまり、同性愛者のカップルには子供が生まれない。だから彼らは、特にキリスト教社会で糾弾され、その影響が加わって世界中でさらに差別されるようになった。
自民党の杉田水脈議員が先ごろ、LGBTの人々は「生産性がない」と発言して物議をかもしたが、彼女は恐らくそのあたりの歴史も踏まえて発言したのだろう。つまりあの言説は、日本人の多くが口には出さないものの、胸の内に秘めている思いを吐露した、確信犯的な放言だったのである。
子孫を残さなければあらゆる種が絶滅する。自然は、あるいは神を信じる者にとっての神は、何よりも子孫を残すことを優先して全ての生物を造形した。
もちろんヒトも例外ではない。それは宗教上も理のあることとされ、人間の結婚は子孫を残すための「ヒトの道」として奨励され保護された。そこから子を成すことができない同性愛などはもってのほか、という風潮が形成されていった。
しかし時は流れ、差別正当化の拠り所であった「同性愛者は子を成さない」という烙印は今や意味を持たず、その正当性は崩れ去った。なぜなら同性愛者の結婚が認められた段階で、そのカップルは子供を養子として迎えることができる。生物学的には子供を成さないかもしれないが、子供を持つことができるのである。
同性愛者の結婚が認められる社会では、彼らはもはや何も恐れるべきものはなく、宗教も彼らを差別するための都合の良いレッテルを貼る意味がなくなる。同性愛者の皆さんは大手を振って前進すればいい。事実欧米諸国などでは同性愛者のそういう生き方は珍しくなくなった。
同性愛者が子供を持つということは、子を成すにしろ養子を取るにしろ、種の保存の仕方にもう一つの形が加わる、つまり種の保存法の広がり、あるいは多様化に他ならないのだから、ある意味で自然の法則にも合致する。否定する根拠も合理性もないのである。それだけでは終わらない。
自然のままでは絶対に子を成さないカップルが、それでも子供が欲しいと願って実現する場合、彼らの子供に対する愛情は普通の夫婦のそれよりもはるかに強く深いものになる可能性が高い。またその大きな愛に包まれて育つ子供もその意味では幸せだ。
しかし、同性愛者を否定し差別する者も少なくない社会の現状では、子供が心理的に大きく傷つき追い詰められて苦しむ懸念もまた強い。ところがまさのそのネガティブな体験のおかげで、その同じ子供が他人の痛みに敏感な心優しい人間に成長する公算もまた非常に高い、とも考えられる。
同性愛者の結婚は愛し合う男女の結婚と何も変わらない。好きな相手と共に生きたいという当たり前の思いに始まって、究極には例えばパートナーが病気になったときには付き添いたい、片方が亡くなった場合は遺産を残したい等々の切実且つ普通の願望も背後にある。つまり家族愛である。
同性愛者は差別によって彼らの恋愛を嘲笑されたり否定されたりするばかりではなく、そんな普通の家族愛までも無視される。文明社会ではもはやそうした未開性は許されない。同性結婚は、日本でもただちに認められるべきである。
同性愛者への偏見差別の大本は、既述のように彼らの関係が生物学的には絶対に子供を成さない、ということにつきる。そこからいろいろな中傷や罵詈や嘲笑が生まれてきた。
その一つが2012年に筆者が書いた記事:「友人でゲイのディックが結婚しましたが、それが何か?」
に寄せられた次のコメントだ。
佐藤 -- · 港区 東京都
ゲイに限らないのかも知れないが、アナルセックスは汚らしい。
いいね! · 返信 · 2012年11 月15 日 10:15
コメントは公開された記事に寄せられたものである。従ってここで紹介しても構わないと考えた。あえてそうするのは、同性愛者への嘲笑や悪意や中傷の中にはこのコメントに近いものも多い、というふうに感じるからである。いやそれどころか、このコメントの内容はあるいは世間一般の人々の平均的なリアクションであるのかも知れない。
悪意に満ちたその論評には2つの意味で違和感を覚える。一つは、普通の人は例えば友人カップル(異性愛者か同性愛者に関わらず)が「どのようにセックスをするのか」などと妄想したりはしない。少なくとも僕はそうだ。このコメントの主が、彼自身の主張が示唆するようにその逆であるならば、彼こそマニアックで異様な性癖を持つ者である可能性がある。
そうではなく、彼または彼女が僕の友人を知らないために平然と悪意の礫(つぶて)を投げたのであるならば、もっと許しがたい。なぜなら恐らく異性愛者である投稿者は、匿名性を隠れ蓑にして同性愛者を罵倒している卑劣な人間だからだ。しかしそれよりももっと重大な誤謬がここにはある。それが僕が最も強い違和感を覚える2つ目のポイントである。
つまり自らに責任を持てる成人である限り、また当事者どうしが合意し満足する限り、人はどのようにセックスをしても構わない。なぜならそれは憎しみや怒りなどの対極にある『愛』にほかならないからだ。愛の異名である性愛の形状は、繰り返すが当事者たちが好む限りいかなるものでも構わない。
例えばある人がパートナーの“ つむじ ” が好きで、愛の交歓の際にそこに固執し、いつくしみ、愛撫してよろこぶならば、そして相手がそれを許し受け入れるならば(そしてできればそうすることでパーートナー自身もよろこぶならばなお一層)、それは疑いもなく愛である。つむじが親指になろうが鼻の頭であろうが何であろうが構わない。
性愛において許されないのは、なによりも先ず相手の同意を得ない行為だ。続いて暴力行為。例えば強姦や小児性愛にはその二つが伴っている。というか、レイプやペドフィリアはその二つのカタマリ、と断定しても過言ではない。その他の「相手の同意を得ない」性愛行為もほぼ同じと考えていいだろう。
繰り返しになるが、成人の当事者どうしが納得し愛し合うならば性行為は何でも構わない。同性愛者の親交の形のみを、“ゲスの勘ぐり”で邪推してそれを貶めるのは、差別意識の発露以外の何ものでもないのである。
リンク記事で紹介した筆者の友人は、米ニューヨーク州が同性結婚を正式に認める決定をしたことを受けてパートナーの男性と結婚した。彼がそうしたのは「男女の夫婦の場合と何も変わらない」事情からだが、特に愛する相手に「普通に遺産を残したい」という切実な思いがあった。ここでもやはり家族愛が最大の理由なのである。
同性愛者について語るときは、彼らの性愛や恋愛や性的嗜好や痴話など、性的事案の方にも多く関心が行きがちだ。そしてそれらの偏見差別のせいで泣いているのは、友人のケースでも明らかなように、またここまでしばしば述べてきたように、家族愛などの人の「当たり前の」感情や権利にほかならない。
同性愛者は子を成さない、ということにまつわる宗教的、社会的、歴史的な差別はいわれのない誹謗であり中傷である。彼らはわれわれの社会になんらの危害も与えていない。危害どころか、人の「存在」の多様性、という大きな利益をもたらしているのが真実である。
もしもそうした考え方を受け入れられない批判者はこう考えてみればいい。つまり同性愛者から見れば彼らの愛の形が普通であり「正常」である。あなた(僕も含む)と、あなたの恋人や妻や愛人との艶事は、異性愛者という「多数派の情交の形」であるに過ぎず、決して正義や道徳や節操を代表するものではない。
それでも先のコメントに同調する人々はもしかすると、同性愛者は道徳的に社会に悪影響を与えていると主張するかもしれない。だがその道徳とは、何よりもまず「同性愛者=(イコール)異常性愛者」という偏見にまみれた結論ありき、の上に構築された似非道徳に過ぎないのである。
そんな道徳は、宗教や政治権力による同性愛者や同姓婚の否定、またそれに影響された保守強硬論者やネトウヨ系差別論者などのヘイトスピーチ、あるいは排外主義者らの牽強付会な汚れたレトリックなどと何も変わるところはないのである。
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