4月21日はイタリアのパスクアだった。イギリスではイースター。日本語では復活祭。イエス・キリストの復活を寿ぐキリスト教最大のイベント。ハイライトは祭り当日に供される子ヤギまたは子羊料理。
不信心者の僕にとっては、パスクアは神様の日というよりも、ほぼ一年に一度だけ食べる子ヤギ料理の日。イタリアでは子羊料理は一年中食べられるが、子ヤギのそれはきわめて難しい。
ことしは初めてレストランで子ヤギ料理を食べた。去年までは家族一同が自宅で、または親戚や友人宅に招かれて食べるのが習いだった。
実はことしも親戚に招かれていたが、子ヤギも子羊も供されない普通の肉料理の食事会、と知って遠慮した。年に一度くらいは特別料理を食べたい。
復活祭前夜の一昨日、友人からも子ヤギ料理への誘いがあった。しかし、レストランを予約してしまっているという不都合もあったので、そちらもやはり遠慮した。
結論をいえば、レストランでの食事は大成功だった。12時半から4時間にも渡った盛りだくさんの料理のメインコースは、もちろん子ヤギのオーブン焼きである。
それは成獣肉を含むこれまでに食べたヤギおよび羊肉料理の中でも第一級の味だった。来年も同じ店で食べてもいいとさえ思っている。
イタリアのレストランでは子羊料理は一年中提供される。だが子ヤギ料理は復活祭が過ぎるとほぼ完全に姿を消す。理由はよく分からない。単純に子ヤギの絶対量が子羊に比べて少ないからではないかと思う。
この国を旅すると、羊飼いと牧羊犬に連れられた羊の大群によく出会う。牧草地ばかりではなく、時には田舎町の道路を羊の群れが渡っているのに出くわしたりもする。
羊は数が多い。羊には羊毛の需要もあるから数が多くなるのだろう。それに比べてヤギの姿はめったに見かけない。探せば見つかるが、羊のように頻繁に目にすることはない。
ヤギは山羊、つまり「山の羊」と呼ばれるくらいだから、飼育や繁殖がむつかしくて数が少ないということもあるのかもしれない。
復活祭になぜ子羊や子ヤギ料理を食べるのかというと、由来はキリスト教の前身ともいえるユダヤ教にある。古代、ユダヤ教では神に捧げる生贄として子羊が差し出された。
子羊は犠牲と同義語である。イエス・キリストは人間の罪を贖(あがな)って磔(はりつけ)にされて死んだ。つまり犠牲になったのである。
そこで犠牲になったもの同士の子羊とイエス・キリストが結びつけられて、イエス・キリストは贖罪のために神に捧げられる子ヒツジ、すなわち「神の子羊」とみなされるようになった。そこから復活祭に子羊を食べてイエス・キリストに感謝をする習慣ができた。
復活祭に子羊を食べるのは、そのようにユダヤ教の影響であると同時に、「人類のために犠牲になった子羊」であるイエス・キリストを食する、という意味がある。
救世主イエスを食べる、という感覚はなかなか理解できないという日本人も多い。だがよく考えてみれば、実はそれはわれわれ日本人が神仏に捧げたご馳走や酒を後でいただく、という行為と同じことである。
神棚や仏壇に供された飲食物は、先ず神様や仏様が食べてお腹の中に入ったものである。その後でわれわれ人間は供物を押し頂いて食べる。それはつまり神仏を食するということでもある。
われわれは供物とともに神様や仏様を食べて、神仏と一体化して煩悩にまみれた自身の存在を浄化しようと願う。キリスト教でもそれは同じ。そんなありがたい食べ物が子羊料理なのである。
僕は冒頭でことわったように不信心者なので、神や霊魂や仏や神々と交信するありがたさは理解できない。ただ、おいしいものを食べる幸せを何ものかに感謝したい、とは常々思う。
イタリアでは歴史的に、一年を通して400万頭内外の子羊や子ヤギが食肉処理され、その多くが復活祭の期間中に消費される。
しかし、その数字は年々減ってきて、ここ数年は200万頭前後に減少したという統計もある。不景気のあおりで人々の財布のヒモが堅いのが理由だ。子ヤギや子羊の肉は、豚肉や牛肉などのありふれた食材に比べて値段が張るのだ。
一方で消費の落ち込みは主に、動物愛護家や菜食主義者たちの反対運動が功を奏しているという見方もある。最近はいたいけな子ヤギや子羊を食肉処理して食らうことへの批判も少なくないのである。
2017年にはあのベルルスコーニ元首相が「復活祭に子羊を食べるのはやめよう」というキャンペーンを張って、食肉業者らの怒りを買った。
ベジタリアンに転向したという元首相は、彼の内閣で観光大臣を務めたブランビッラ女史と組んで、動物愛護を呼びかけるようになった。アニマリストから拍手喝采が起こる一方で、ビジネス界からは反発が出た。
僕は正直に言ってその胡散臭さに苦笑する。突然ベジタリアンになったり動物愛護家に変身する元首相も驚きだが、子羊だけに狙いを定めた喧伝が不思議なのである。食肉処理される他の家畜はどうでもいいのだろうか。
動物の食肉処理の現場は凄惨なものである。僕は以前、英国で豚の食肉処理場のドキュメンタリー制作に関わった経験がある。屠殺される全ての動物は、次に記す豚たちと同じ運命にさらされる。
彼らは1頭1頭がまず電気で気絶させられ、失神している20秒~40秒の間に逆さまに吊り上げられて喉を掻き切られる。続いて血液を抜かれ、皮を剥がれ、解体されて、またたく間に「食肉」になっていく。
その工程は全て流れ作業だ。すさまじい光景だが、工程が余りにも単純化され操作がスムースに運ばれるので、ほとんど現実感がない。肉屋やスーパーに並べられている食肉は全てそうやって生産されたものだ。
菜食主義者や動物愛護家の皆さんが、動物を殺すな、肉を食べるな、と声を上げるのは尊いことだと思う。それにはわれわれ自身の残虐性をあらためて気づかせてくれる効果がある。
だが、人間が生きるとは「殺すこと」にほかならない。なぜなら人は人間以外の多くの生物を殺して食べ、そのおかげで生きている。肉や魚を食べない菜食主義者でさえ、植物という生物を殺して食べて生命を保っている。
人間が他の生き物の命を糧に、自らの命をつなぐ生き方は誰にもどうしようもないことだ。それが人間の定めだ。他の生命を殺して食べるのは、人間の業であり、業こそが人間存在の真実だ。
大切なことはその真実を真っ向から見据えることだ。子羊や子ヤギを始めとする小動物を慈しむ心と、それを食肉処理して食らう性癖の間には何らの矛盾もない。
それを食らうも人間の正直であり、食わないと決意するのもまた人間の正直である。僕はイタリアにいる限りは、復活祭に提供される子ヤギあるいは子羊料理を食べる、と心に決めている。
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