女王ダサい丸帽子合成


今上天皇の退位を間近に控えて、天皇皇后両陛下の動きや足跡や歴史を伝える報道が多い。両陛下のこれまでの生き方を知れば、仮に天皇家に反感を持つ者がいたとしても、その厚い人間力に深く頭を垂れるのではないか。

今上天皇の退位にともなって新天皇となる予定の、皇太子さんに覚えないでもない若干の不安も、ひとえに今上天皇の人間力の大きさゆえである。

しかしながら皇太子さんには、妻への強い思いやりや開けた皇室志向など、今上天皇とは違う人間力もあるように見える。即位後の精勤に期待したい。

政治家の中には、間もなく誕生する新天皇を取り込み操りたい策謀をチラつかせる者もあるようだが、皇太子さんにはぜひ、国民の安穏と国家の過去の過ちを見つめ続けた今上天皇の足跡を見習ってもらいたい。

そういう真摯な思いから皇后陛下にまつわるささやかだが、実は大きな意味合いも持つように見えるエピソードを、上皇后となる前に記しておくことにした。

2011年、僕は新聞に次の趣旨の短いコラムを書いた。
“最近、ウイリアム王子の婚約にちなんで、英王室の女性たちの姿がイタリアのメディアにも頻繁に登場する。多くの場合彼女たちは巨大で華美な帽子をかぶっている。そのとき僕はよく美智子皇后の奇妙なミニ帽子を思い出してしまう。
 皇后陛下の帽子の形は、体格的にも雰囲気的にも、また恐らく皇后陛下も自らにはあまり似合わないと感じているであろう、英王室的な女性の帽子を、彼女に合わせて作り変えたところ自然と小さくなった、ということなのだろう。
 しかし、極端に小さくなった皇后陛下のミニ帽子はもはや帽子ではない。帽子ではないものを帽子に見せかけてかぶるのはいただけない。潔く脱いで帽子なしで過ごそうとしないのは、帽子をかぶることが高貴な人の装いであり、伝統であると信じ、進言するような人などが周辺にいるからだろうか?
 伝統を守るのは立派なことだが、帽子ではないミニ帽子は偽物であるから伝統を引き継いでいるわけではない。だから、さらりと捨て去ればいいのである。
 ある種の日本人が良いと思い込んでいる英王室の女性たちのファッションセンスは、例えばフランスやイタリアなどでは冷めた目で見られている。特にあの帽子のセンスは、尊大なだけの田舎ファッション、という見方も多い。写真を眺めてクスクスと忍び笑いをする者さえいるくらいだ。
「日本の」皇后陛下はあんなものにこだわる必要はないのである。
 ミニ帽子とは縁遠い着物姿の皇后陛下は、実に上品で清淑で美しい。日本の国を代表する重責を担いつつ、あまたいる着物姿の美人女優さえも全く寄せ付けない、軽やかで優美な印象を与える。また洋装の場合でも、奇妙な「プチ被りもの」が頭上にないほうが自然で閑麗だ。言いにくいことだが、やはりあのおかしなミニ帽子にこだわる必要はないのではないか、と思うのである” 


明治維新以降、日本は西洋のあらゆる文明文化や文物や様式までも捜し求めて受け入れ、取り入れてきた。それは間違いではなかったと思う。しかしながら行き過ぎた崇拝にまで至ったケースも少なくない。

日本人が西洋に対する時に見せる、抜きがたい劣等意識やおそれや迷いやためらいといったネガティブな胸懐 や、逆にそれらの裏返しである不必要に猛々しい対抗心や驕りや怒りなどは、全て過度な西洋崇拝から生まれるねじれた心理の表出だ。

皇后陛下のプチ 被りものにもそのことが象徴的に現れているように思う。彼女は日本国民の心情を代弁してそういう装いもしなければならなかった、という一面もある。皇后陛下は上皇后となるのを機にそのしがらみから解き放たれるべきだ。またきっとそうなることだろう。

それは日本国民が同じしがらみから解き放たれる可能性を示唆する慶事だ。だが同時に、過去のしがらみを忘れてはならない。そのエピソードは将来への戒めとなり得る記憶だからだ。そうした意味をこめて、繰り返しになるが、皇后陛下が「皇后」であるうちにあえてここに記しておくことにした。



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