ヤギ成獣肉のサフラン煮込み
2019年6月、イタリア・サルデーニャ島でバカンスを過ごした。前年と合わせて2年連続での同島への休暇旅になった。自然が豊かなサルデーニャ島では、名所旧跡巡りよりもビーチで過ごす時間や食ベ歩きが主な楽しみになる。
サルデーニャ島の、いわばソウルフードともいうべき深みのある郷土食また伝統食は、肉料理である。島でありながら魚料理よりも肉料理が充実したのは、外敵の侵略にさらされ続けた島人が、内陸部に逃げ込んで定住した歴史があるからだ。
島の肉料理の素材は、豚・牛・鶏・羊・山羊・馬・猪・鹿・驢馬等々である。驢馬を別にすればそれらの食材は欧州ではありふれたものだ。また驢馬肉はサルデーニャ島でも珍しい部類の食品。ひんぱんには見られない。
サルデーニャ島の有名肉料理にポルケッタ(島語ではporceddu=ポルチェッドゥ)がある。子豚の丸焼きである。乳飲み子豚が最高級品とされる。また牛、豚、羊、ヤギなどは肉以外の内臓や器官もよく食べられる。ポルケッタを別にすれば、僕は島のヤギ及び羊料理が好きである。
牧羊が盛んな島なのでヤギ肉や羊肉(以下=ヤギ・羊肉)も良く食べられているが、豚や牛や鶏肉などに比較すると目立たない。通常食材の豚・牛・鶏肉が多く食べられるのは、島が「イタリア本土化」し、経済的に豊かになったからである。かつては ヤギ・羊肉 は島の食文化の中心にあった。
島の「イタリア本土化」つまり島の近代化は、魚介料理の発達ももたらした。魚料理は昔からもちろん島にはあった。だが現在の豊富な魚介膳は、イタリア本土の金持ちバカンス客らによって導入された側面が大きい。そしてリゾート地としての同島の中心食は、今や海鮮料理である。
四方が海の島だけにサルデーニャの海産物は新鮮だ。新鮮であれば魚介は何でも既に美味い。刺身が美味なのがその証拠だ。そこにさらに、本土由来の豊穣なイタリア料理のレシピが導入されたのだから、島の魚介膳が飛躍的に発展したのもうなずける。
特に魚介を使ったパスタは今では、イタリア全国でも屈指の美味さを誇るほどになった。僕は島ではいつものように肉料理、中でもヤギ・羊肉料理を探し求めたが、同時に魚料理も積極的に食べた。ただ魚料理といってもメインコースではなく、魚介パスタのファーストコースが主だった。
今回旅ではアサリとボッタルガ(カラスミの一種)をはじめとする、ミックス魚介のパスタに見るべきものが多くあった。秀逸な具材の組み合わせと味付けは、舌の肥えたバカンス客を相手にすることが多い、サルデーニャ島のレストランならではの品々だと痛感した。
だが実は僕は昨年、ほぼ同じ作りのパスタで最悪の味の一皿にまさにそのサルデーニャ島で出会っている。その店の顧客は多くが北欧や旧共産主義圏のバルカン半島からの観光客だった。彼らは食物の味におおらかでイタメシなら何でも美味い、と思い込んでいるとも評価される。
それが理由の一つなのかどうか、その店のアサリとボッタルガのスパゲティは両方とも水っぽく、具材の良さが完全に失われた粗悪な一品だった。パスタの本場のイタリアでは麺料理はほぼ常に美味い。それだけに店の不手際は少し異様にさえ見えた。
今回の旅の初めでは魚介の美味い店は多かったが、肉料理には見るべきものがなかった。それでも情報を集めてポルケッタが美味いと評判のアグリツーリズモにたどり着いた。しかし店構えは良かったものの、そこの料理の味は昨年食べたポルケッタのそれには遠く及ばなかった。
やはり昨年、島の北部のレストランで堪能した、サルデーニャ本来の少し風変わりだが濃厚な味の肉料理を探すことは諦めて、それ以後はイタリア本土が起源の、だが島独自の要素もふんだんに盛り込んだ、海鮮料理に的をしぼって食べ歩くことにした。
アサリ&ボッタルガのスパゲティ
前述のようにハズレがほとんどない美味い店の連続だった。その中でも海辺のレストランで食べた、上の写真のアサリ&ボッタルガのスパゲティが超一級品だった。昨年、似たような立地のビーチレストランで食べたパスタとは、似ても似つかない素晴らしい味だったのである。
僕はバカンスでは「何もしないことが休暇」というモットーで、連日ビーチでのんびり過ごすが、食事や観光や史跡また名所巡りなどにも、「何もしない」のと同じくらいの情熱で車を駆ってどんどん出掛ける。今回は滞在先に近い島の中心都市カリャリにも足を伸ばした。
カリャリでは昨年のサルデーニャ肉料理店と良く似た体験をした。想定外のおどろきのヤギ肉料理に出会ったのである。成獣のヤギ肉をサフランで煮込んだ一皿で、去年の一大発見である「羊の成獣の骨付き焼肉」に勝るとも劣らない風味を閉じ込めた絶品だった。
冒頭の写真がそれだ。見た目は、例えば沖縄のヤギ汁から汁だけを取り除いたような一皿だが、味わいはヤギ汁とは雲泥の差のある極上、且つ上品なものだった。上質なヤギ・羊肉料理の常で、独特の豊かな風味は残しながら、それらの肉の最大の欠点である異臭がきれいさっぱり消し去られていた。
ヤギや羊の成獣の肉には、独特の臭気という深刻な障害がある。そこで出色の店は、ハーブや香辛料やワインや酢やリキュール等々を駆使して肉をさばいて臭みを消す。その店ではサフランに加えて、おそらくワインも併用して見事に消臭を成し遂げていた。
またヤギ&羊の成獣肉には肉質が硬いという難点もある。成功した調理法では、異臭を消すと同時に、肉も柔らかく且つ上品な歯ごたえに改良されているケースがほとんどだ。僕が知る限りでは舌触りも必ずまろやかになっている。むろんその店の仕上がりも同様だった。
店は丘の上に広がるカリャリの旧市街、カステッロ地区にある。地区の入り口付近にあるエレファンテの塔(Torre dell'Elefante)を通過し左に歩いてすぐの場所だ。 海と市街を見渡す路上にテーブルを並べた同店は、昨年の島の北部のレストランと同じサルデーニャ伝統の肉料理専門店。
全くの偶然で見つけた。昨年のレストランよりもより豪快で素朴な肉料理に徹していた。だが海鮮料理店がひしめいているカリャリで、島伝来の肉料理にこだわるところは、海際の街にありながらやはり島伝統の肉料理に集中していた、昨年の店と心意気は同じだと思った。
ヤギ肉のサフラン煮込みとは正反対のサプライズもあった。子羊の骨付き肉のローストを頼んだところ、肉がタイヤのように硬くて、ナイフで切り分けるのも一苦労、という信じがたい代物が出てきたのである。ようやく切り分けて口に含むとやはり異様に硬い。
味は、ま、普通の味だが肉質の硬さが料理を完全にぶち壊しにしていた。成獣肉のサフラン煮込みという見事なレシピを編み出したシェフが、なぜこんなにも粗悪な料理を提供するのか、と僕は不審になった。よほどクレームを入れようかと思ったが、やめた。
子羊肉はサルデーニャでは秋から春が旬の食材、という話を思い出したからだ。牧羊が盛んなサルデーニャ島では、子羊料理が一年中食べられると思い込んでいた僕は、再び昨年、子羊料理は季節限定の品だとレストランで告げられてひどくおどろいた経験がある。
冷凍技術が発達した現在では、子羊肉はイタリアでは一年中出回っている。ましてや牧羊が活発なサルデーニャ島なのだからいつでもどこでも食べられると思ったのだ。だが牧羊が盛んで羊肉を良く知っているからこそ、サルデーニャの人々は新鮮な子羊肉にこだわるということらしい。
間違った季節に子羊料理を注文した自分が悪い、と僕は思い直した。ヤギ成獣肉のサフラン煮込みのあまりの美味さが、子羊料理のガッカリ感を吹き飛ばしていたこともある。また最高と最悪の味が同居している島の食環境は面白い、という思いもあった。
昨年は最悪の味のアサリとボッタルガのスパゲティを食べた。今年は一転して、妙妙たる口当たりのアサリ&ボッタルガのパスタに出会った。そして今、超ド級の味覚のヤギ成獣肉を頬張りつつ、木切れのように味気ない子羊肉も咀嚼している。実に面白い、とひとり密かにつぶやいた。
そうやって僕のヤギ・羊肉料理体験記には、また一つ「世界一」と格付けしたくなる極上レシピがリストに加えられた。そのリストは実は、子ヤギ・子羊料理のランク付けとして始まったものだが、いつの間にかヤギ・羊の「成獣肉」料理の一覧になりつつある。
ヤギ・羊の成獣肉は、子ヤギ・子羊の肉よりもはるかに臭気が強く肉質も硬い。従って料理の切り盛りも幼獣肉のそれよりずっと難しい。良く言えば珍味、もっと良く言えばゲテモノ(!)のヤギ・羊の成獣肉を、目覚ましい食材に変貌させるシェフたちの意気と技量に、僕ははなはだ感じ入ることが多くなった。
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