グラスワイン注ぐバーテンダー600



イタリアに住んでいて一番なつかしいのは日本の酒場である。この国には、じっくりと腰を落ちつけてひたすら飲んだり、あたりをはばからずに浮かれ騒いだりすることのできる、居酒屋やバーや赤ちょうちんやスナックやクラブというものがほとんどない。

それではイタリア人は酒を飲まないのかというと、全く逆で彼らは世界でも1、2を争うワイン生産国の国民らしく、のべつ幕なしに飲んでいる。食事時には夜昼関係なく水や茶の代わりにワインを飲むし、その前後には食前酒や食後酒も口にする。

それとは別に、人々は仕事中でも「バール」と呼ばれる カフェに気軽に立ち寄って、カウンターで1杯のビールやワインをぐいと立ち飲みして去るのが普通の光景である。 そんな具合に酒を飲みつづけていながら、彼らは決して酔わない。

西洋社会はおおむねそうだが、イタリア社会はその中でも酔っぱらいに非常に厳しい。一般におおらかで明るいイタリア人は、酔っぱらいにも寛大そうに見える。だが、現実はまったく逆である。彼らはたしなみ程度の飲酒には寛大だ。しかし酔っぱらいを蛇蝎のように嫌う。

「いやあ、ゆうべは飲み過ぎてしまって」
「いやいや、お互い様。また近いうちに飲(や)りましょう」
とノンベエ同志が無責任なあいさつを交わし合い、それを見ている周囲の人々が、
「しょうがないな。ま、酒の上のことだから・・・」
と苦笑しながら酒飲みを許してやっている日本的な光景は、ここには存在しない。

酒に酔って一度ハメをはずしてしまうと、よほど特殊な状況でもない限り、その人はもう翌日からまともな人間としては扱ってもらえない。酔っ ぱらい、つまり酒に呑まれる人間を人々はそれほどに嫌う。交通安全の標語じゃないが“飲んだら酔うな。酔うなら飲むな。”というのが、イタリアにおける酒の飲み方なのである。

それならイタリアには酔っぱらいは一人もいないのかというと、面白いことにこれまた全く逆の話なのである。うじゃうじゃいる。というより も、イタリア国民の1人ひとりは皆酔っぱらいである。ただし、彼らは酒に酔った本物の“酔っぱらい”ではない。精神的なあるいは性格的な“ヨッパライ”である。

酔うと人は楽しくなる。陽気になる。やたらと元気が出て大声でしゃべりまくる。社長も部長も課長も平社員も関係がなくなって、皆平等になり本音が出る。仕事仕事とガツガツしない。いや、むしろ仕事など投げ出して遊びに精を出す・・こうした酔っぱらいの特徴は、そのまま全てイタリア人に当てはまる。上戸も下戸も、男も女も子供も老人もドロボーも警察官も、そして夜も昼も関係がない。彼らは生まれながらにして、誰もが等しく酔っぱらいならぬ “ヨッパライ”なのだ。

ヨッパライたちの酔いぶりは、アルコールとは縁がないから抑制がきいていて、人に迷惑をかけない。くどくどと同じことを繰り返ししゃべらない。狂暴にならない。言動に筋が通っていて、翌日になってもちゃんと覚えている等々、いいことずくめである。

ただし、イタリア野郎にフランス男と言うくらいで、男のヨッパライの多くは、白昼でもどこでもむやみやたらに若い女性に言い寄る、という欠点はある。なにしろ、ヨッパライだからこれはしょうがない。

ところで、この「むやみやたらに女性に言い寄る」というイタリア野郎どもの欠点は、実は欠点どころか“ヨッパライ”であるイタリア人の最大の長所の一つではないか、と僕は最近考えるようになっている。

女性に言い寄っていくヨッパライたちの最大の武器は言葉である。俗に言う歯の浮くようなセリフ、臆面もないホメ言葉、はたで聞いている者が 「ちょっと待ってくれよ」と思わずチャチを入れたくなるような文句の数々、つまりお世辞を連発して、ヨッパライたちは女性に言い寄っていく。

男「君って、いつもホントにキレイだな」
女「ありがとう」
男「髪型、少し変えたね」
女「分かる?」
男「トーゼンだよ。前髪をちょっとアップにしたから、額が広くなってますます知性的に見える。額が広くなると、どうして人間はかしこく見えるんだろう?あ、分かった。かしこく見えるだけじゃないんだ。セクシーになるんだ」
女「うれしい。ホントにアリガト」
みたいな・・

まるで天気か何かの話しでもしているように自然でスムーズで、且つなぜかいやらしくない、彼らの口説きのテクニックをひんぱんに目のあたりにしているうちに、僕はある日ハタと気づいた。彼らの言動は、口説くとか、言い寄るとか、あるいは愛情表現や情事願望などといった、艶っぽい動機だけに 因っているのではない、と。

それはほとんどの場合、単なる挨拶なのである。まさに天気の話をするのと同じ軽いノリで、彼らはそこにいる女性を持ち上げ、称賛し、あれこ れと世辞を投げかけているに過ぎない。そして目の前の相手を褒めちぎり、世辞を言いつづけるのは、男と女の間に限らず、実はイタリア社会の対人関係の全般に渡って見られる現象である。

こぼれるような笑顔と、身振り手振りの大きな仕草を交えながら、彼らは近況を報告し合い、お互いの服装を褒め、靴の趣味の良さを指摘し合 い、学業や仕事や遊びで相手がいかにガンバッテいるかと元気づけ、家族や恋人に言及して持ち上げ、誰かれの噂話をした後には再びお互いの話に戻って、これ でもかこれでもかとばかりに相手の美点を言いつづける。

イタリア人に悩みがない訳ではない。他人の悪口を言う習慣がない訳でもない。それどころか人生の負の局面は、悲しみも苦しみも妬みも憎しみ も何もかも、イタリア人の生活の中にいくらでも織り込まれていて、彼らの心に絶えず重石を乗せ陰影を投げかける。彼らはそれを隠すこともなければ否定もし ない。あるがままに素直に受け入れて、泣いたり、怒ったり、絶望したりしている。

ところが彼らは、同じ生活の中にある喜びの部分、明るい部分、楽しい部分になると俄然態度が変わる。それをあるがままに素直に受け入れるのではなく、できる限り大げさに騒ぎ立て、強調し、目いっぱいに謳歌して止むことがない。彼らはそうすることで、人の力では決して無くすことのできない人生の負の局面を、相対的に小さくすることができる、とでも信じているようである。何事もポジティブに前向きに考え、行動しようとする態度の一つの表われが、対人関係における彼らのあからさまなお世辞なのである。

男と女の場合に限らず、お世辞は言わないよりは言った方がいいのだ、と僕はイタリアのヨッパライ社会を見て思うようになった。よほどヘソの 形が違う人はともかく、たとえお世辞と分かっていてもそれを言われて悪い気のする人はいない。それならば皆がどんどんお世辞を言い合えばいい。そうすれば 誰もが良い気分になって世の中が明るくなる。陽気になる。イタリア社会のようになる。

そう思ってはみるものの、沈黙を尊ぶ東洋の国から来た僕にとっては、美人はともかく、不美人に対しても美しい、きれいだ、センスがいいと絶えず言葉に出して言いつづけるのは辛い。勇気もいるが、体力も気力も必要だ。面倒くさい。ましてや、日常生活の中で会う人のことごとくに賛辞を述べ、元気づけ、がむしゃらに前向きの会話をつづけるのは、気が遠くなりそうなくらいに疲れる。それこそ酒でも飲んでいなければとてもそんな元気は出ない。しかし、 酒を飲んで酔っぱらってしまってはルール違反だ。飽くまでも素面の“ヨッパライ”でなくてはならないのである。

そういう訳で、僕は素面のままで彼らに合わせようと毎日いっしょうけんめいに努力をする。努力をするから毎日疲れる。疲れるから、夜は一杯 やってストレスを解消したくなる。ところが、もう一度くり返すけれども、この国では酒を飲んで酔っぱらうのはヤバイのだ。“ヨッパライ”は大歓迎される が、本物の酔っぱらいは人間扱いをしてもらえない。当然ここでも飲みながら酔わないように、酔わないように、と努力の連続。

そういう暮らしばかりをしているものだから、飲んで騒いで無責任になれる日本の酒場がなつかしい。赤ちょうちんや居酒屋の匂いが恋しい。努力なんか少しもしないでなれる本物の酔っぱらいになりたい・・・。



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