レースロメオ600pic


イタリアには名車が多い。古くはOMという車に始まり、現在はフェラーリ、ランボルギーニ、マセラッティ、アルファロメロ、ランチァ、フィアットなどとつづく。これらの車はどれをとってみても、非常にカラフルで新鮮な印象を人に与える。なんとも美しく個性的だ。

ドイツにもイギリスにもアメリカにもその他の国々にも名車はある。しかし、人それぞれの好みというものを別にしても、イタリアのそれほど個性的でカラフルな感じはしないように思う。

なぜそうなのかと考えてみると、どうもこれはイタリアの車が完全無欠というにはほど遠いせいであるらしいことがわかる。典型的な例はアルファロメオだ。この車はスポーツカータイプの、日本で言えば高級車の部類に入る車の一つだが、イタリアではごく一般的に街を走っている。僕もかつて乗り回したことがある。

アルファロメオはバカバカしいくらいに足が速くて、スタートダッシュから時速100キロメートルに達するまでにわずかな秒数しかかからない。まるでレース カーのような抜群の加速性だ。ボディーの形もそれらしくスマートで格好がいい。ところがこの車には、古くて新しく且つ陳腐だが人を不安にさせる、笑い話のような悪評がいつもついてまわる。

いわく、少し雨が降るとたちまち雨もりがする。いわく、車体のそこかしこがあっという間にサビつく。いわく、走っている時間よりも修理屋に入っている時間のほうが長い・・・云々。アルファロメオの名誉のために言っておくが、それらは大げさな陰口である。

しかし、火のないところに煙は立たない。アルファロメオはドイツ車や日本車はもとより、イタリアの他の車種と比べても、故障が多く燃費も悪い上に排気音も カミナリみたいにすさまじい。スマートで足が速い点を除けば、車そのものが不安定のカタマリようなマシンだ。つまり「欠陥車」である。

ところがイタリア人にとっては、アルファロメオはそれでいいのである。スマートで格好が良くてハチャメチャにスピードが出る。それがアルファロメオのアルファロメオたるゆえんであって、燃費や排気音や故障の多い少ないなどという「些細な事柄」は、ことこの車に関するかぎり彼らにとって
はどうでもいいことなのだ。

そんなバカな、とおどろくにはあたらない。イタリア人というのは、何事につけ、ある一つのことが秀でていればそれを徹底して高く評価し理解しようとする傾 向がある。長所をさらに良くのばすことで、欠点は帳消しになると信じている。だから欠点をあげつらってそれを改善しようとする動きは、いつも 二の次三の次になってしまう。

人間に対しても彼らは車と同じように考える。いや、人間に対するそういう基本的な見方がまずあって、それが車づくりや評価にも反映している、という方が正しいと思う。分かりやすい例を一つ挙げればベルルスコーニ元首相である。

ベルルスコーニー氏は、少女買春容疑等を含む数々の醜聞や訴訟事案を抱えながら、長い間イタリア政界を牛耳り、首相在任期間は4期9年余に及んだ。2013年に脱税で有罪判決を受けながらも政界で生きのび、ことし5月には欧州議会議員に選出された。

醜聞まみれのデタラメな元首相をイタリア人が許し続けるのは、デタラメだが一代で巨財を築いた能力と、人当たりの良い親しみやすい性格が彼を評価する場合には何よりも大事、という視点が優先されるからだ。そうしたイタリア的評価法の真骨頂は子供の教育にも如実に現れる。

この国の人々は、極端に言えば、全科目の平均点が80点の秀才よりも、一科目の成績が100点で残りの科目はゼロの子供の方が好ましい、と考える。そして どんな子供でも必ず一つや二つは100点の部分(試験の成績という意味だけではなく)があるから、その100点の部分を120点にも150点にものばして やるのが教育の役割だと信じ、またそれを実践しているように見える。

たとえば算数の成績がゼロで体育の得意な子がいるならば、親も兄弟も先生も知人も親戚も誰もが、その子の体育の成績をほめちぎり心から高く評価して、体育の力をもっともっと高めるように努力しなさい、と子供を鼓舞する。

日本人ならばこういう場合、体育を少しおさえて算数の成績をせめて30点くらいに引き上げなさい、と言いたくなるところだと思うが、イタリア人はあまりそういう発想をしない。要するに良くいう“個性重視の教育”の典型なのである。

子供の得意な分野をまず認めてこれを見守る、というのは非常に人間的であたたかく、しかも楽観的な態度だ。同時に厳しい態度でもある。なぜなら一人一 人の子供は、平均点をのばして偏差値を気にするだけの画一的な勉強をしなくても良い代りに、長所と認められた部分を徹底して伸ばす努力をしなければならな いからだ。

長所とは言うまでもなく個性のことである。そして個性とは、ただ黙ってぼんやりと生きていては輝かない代物なのだ。

かくしてアルファロメオは、社会通念になっているイタリア国民一人一人の前述の物の見方に支えられて、第一号車ができて以来ずっと、速さとカッコ良さだけ にせっせと磨きをかけてきた。一日や二日で達成したものではないからその部分では他のどんな車種にも負けない。

同時に雨もりや故障という欠陥部分の強い印象も健在である。突出しているが抜けている。だから憎めない。それがアルファロメオであり、名車の名車たるゆえんだ。なんともイタリア的というべきか。はたまた人間的と言うべきか・・陳腐な結論かもしれないがそれ以上の言葉はみつからない。



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