銃撃多人数


少し物騒に聞こえるかもしれない話をしようと思う。

アメリカを筆頭に銃乱射事件があとを絶たない。乱射には至らないが銃による殺人事件や事故は世界中でもっとひんぱんに起こっている。

僕は厳しい銃規制に賛成の立場だ。

ところが個人的には、近く拳銃を扱う訓練を始める計画である。拳銃を扱う訓練とは、要するに銃撃の仕方を習うということだ。

僕は銃、特に拳銃が怖い。自身のそのトラウマをほぼ25年前、僕は偶然に発見した。

1994年、シチリア島で長期ロケをしていたとき、ある人が護身用に保持している拳銃を手に取ってみる機会があった。

拳銃は合法的に取得・登録済みのもので、そのとき実弾も装填されていた。

手にした拳銃はずしりと重かった。手に取るとほぼ同時にその重さは強い不安に変わり恐怖心を呼んだ。今にも暴発しそうなイヤな感触もあった。

そのくせ僕は、引き金に指を掛けるどころかグリップさえ握らずに、銃を寝かせたまま全体を手の平に乗せて、軽く包み込むように持っただけなのである。

いうまでもなくその恐怖心は、拳銃が殺傷の道具である事実と、それを所持した人間が犯す事件や事故の可能性を知っていることから生じている。

また僕は拳銃がもたらす事態の怖さを知っているのに、その怖さを生み出す拳銃そのもののことを全く知らない。弾丸を撃ち出す仕組みも構造も何もかも、手にした拳銃の実体の全てが理解できないのだ。

その現実も不安となりさらに大きな恐怖となった。人間が作った道具をそれへの無知ゆえに僕は激しく怖れる。そこでは無知こそが恐怖の動機だった。

そのとき湧き起こった恐怖心はさらなる心理の屈折を僕にもたらした。つまり僕は拳銃を怖れている自分にひどい屈辱感を覚えたのだ。

そうやって僕は恐怖と屈辱といういやな感情を自分の中に抱え込んでしまった。

それは25年後の今もはっきりと僕の中に刻み込まれている。2つながらの感情を克服するには、なによりも先ず再び銃を手に取って、今度は実際にそれを撃ってみることだ。

銃撃を習得する過程で僕は銃の構成やからくりや大要や論理等々についても勉強していくだろう。射撃を習うことができる試射場は、イタリアには数多くある。

実は10年ほど前に猟銃の扱いを覚えた。狩猟に出る気はないが、素人には猟銃のほうが扱いやすい、という友人の軍警察官のアドバイスを得て試してみたのだ。

秋の狩猟シーズンに友人らに連れられて山に入り、主に空に向かって猟銃を撃っては少しづつ慣れていった。そうやって今では僕は、割りと平穏に猟銃を扱えるようになった。

課題は拳銃である。映画などでは手慣れたオモチャかなにかのように拳銃を軽くあしらうシーンがひんぱんに出てくる。だが、拳銃は猟銃とは違って扱いが難しい。慣れないうちは暴発や事故も頻発する。

また片手の内に収まるものもある小さな装備が、引き金にかかる指先のかすかな動きで爆発し、圧倒的な威力で人を殺傷する悪魔に変わる現実の、重圧と緊張と悪徳もうっとうしい。

僕の恐怖感の正体も、片手でも扱える小さな、そのくせずしりと重い拳銃への無知と疎ましさと嫌悪に基因がある。僕はそれらの全てを克服してすっきりしたいのである。

拳銃を自在に使いこなしたいのは恐怖の克服が第一義の理由だが、実はほかにも2点ほど僕がその必要性を思う理由がある。

僕はここイタリアでは少し特殊な家に住んでいる。古い落ちぶれ貴族の館で過去には何度も盗みや押し込みの被害に遭っている場所だ。

そんな歴史があるため、屋内には金目のものは置かれていない。盗む価値のあるものが存在するとすればそれは、古い大きな建築物そのもの、つまりこの家だけだ。それはむろん持ち去ることなどできない。

イタリア中に存在する「私有の」貴族館や歴史的豪邸や城などは、ほぼ100%がそんな状況にある。要するに貧乏貴族のボロ家なのだ。イタリア人のプロの盗賊なら経験上そのことを知っている。

だが、今のイタリアには外国人の犯罪者があふれている。イタリアの歴史的家族の内情を知らない彼らは、建物の堂々たる外観だけに目を奪われて、空しい盗みを計画するかもしれない。

それでも彼らのほとんどは武装した危険な賊徒だ。その連中は常に暴力的だが、屋内に目ぼしい金品がないと知ると特に、憤怒にかられた殺人者に変貌することが多い、と統計が語っている。

自家は警備システムで厳重に守られているが、僕自身が護身のために武器を秘匿しておくのも悪くない、と感じないでもない。ここは平和な日本ではない。“普通に”危険な欧州の一国だ。

僕は臆病な男だが、もしも賊に襲われたときには、黙って難を受け入れることを潔しとしない。家族を守るために必ず行動しようとするだろう。

もうひとつの理由は少々形而上学的なものだ。将来ムダに長生きをしたとき、尊厳死が認められている社会ならいいが、そうでないときはあるいは拳銃が役に立つかもしれない。

形而上学的どころかひどく生々しい話に聞こえるかもしれない。しかし、僕には自壊の勇気など逆立ちしてもない。将来もそんな勇気は湧かないだろう。だからそれは妄想という名の形而上学的世界。

小心者の僕は120歳になんなんとする時まで生きてもきっと、拳銃を手にして、この悪魔を喜ばせないためにも自滅などしない。僕はもっともっと生き続けなければならない、などと自己弁護に懸命になっていることだろう。

それらのことを踏まえて、僕は近く射撃場の扉を叩く予定である。



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