山火事&逃げる鹿600


台風19号に襲撃される日本の姿を、インフルエンザに襲撃されてへこんだ体調のまま逐一見ていた。生中継を多く含むNHKの台風情報が、衛星を介してイタリアにも途切れることなくもたらされていたのだ。

元々インフルエンザや風邪で高熱を出して寝込むことが多い体質だが、今回は台風が日本を直撃した週末を含む5日間、熱と激しい悪寒と強烈な関節痛また下痢の症状に悩まされた。

ずっと安静にしている状態なので、日本時間でいえば夜半過ぎから明け方にかけてのおかしな時期に目覚めていることも多い。そういうわけでNHKが夜通し流す台風情報や関連のニュースをイタリアで見つつげたのだった。

日本より7時間遅れのイタリアでは、日本の夜中過ぎから未明の番組も夕方から夜にかけの時間帯に見る。言葉を替えれば、日本に住んでいる場合はほとんど見る機会がない時間のニュースも逐一実見した。

天災多難の国日本で、十年一日のごとく繰り返される人命ロスを含む惨劇。自然現象の強さと予測不能性を認めつつも、本当になんとかならなかったのか、という疑問がいつものように脳裏に湧いた。

気候変動はもはや否定しようもなく、今後日本にはスーパー台風がひんぱんにやって来る、いや、早くも来はじめているとされる。ならばそれに応じてこれまでの常識とは違う災害対策がなされるべきだろう。

今回の台風も、首都圏などを襲うものとしては、前代未聞の巨大台風であることが早くから明らかになり、メディアなどでもその旨大きく喧伝された。それでも甚大な被害が出た。

対策が間に合わなかったであろう背景を理解しながらも、もう少し被害を防ぐ方法は本当になかったのか、と不審の思いが消えない。堤防決壊による洪水や越水が、想定外の「台風の規模」を勘案しても異様に多い、と感じるのだ。

一方、暴風の被害は幸い少なかった。農作物や自然の草花その他の景観への打撃はさておいて、暴風被害を食い止める方法は、台風銀座と呼ばれる沖縄の島々ですでに試され成功している。すなわち家屋の鉄筋コンクリート化だ。

沖縄の島々には大小の台風がひんぱんに上陸し甚大な被害をもたらす。だがそれらの台風は、日本に「上陸」したとはみなされない。日本の気象規定では、北海道、本州、四国、九州の4島に上陸する台風だけを「上陸」したと記録する。その他は全て「通過」と表記する。

そうした規定のせいで見えにくいが、日本には実は多くの巨大台風が「上陸」しているのだ。その大半が沖縄諸島なのである。だから沖縄には伝統的な赤がわらの家屋がなくなって、暴風に強い鉄筋コンクリートの家屋が林立するようになった。

醜悪な外観のコンクリート建造物だが、背に腹は変えられない事情で存在しているのが沖縄の殺風景な家並みだ。今後は沖縄以外の都道府県も、その例にならうべき時期にきているのかもしれない。

ともあれ、暴風による破壊が最小限に留まったのが事実なら、不幸中の幸いと形容してもいいのではないか。

自然災害の多い日本なのに、なぜいつも同じ悲劇がくりかえされるのか。今回の台風の場合、その規模や時間やもたらされる災禍の種類などがかなり詳細に予測されていた。にもかかわらずに10月16日現在 、74人もの人が犠牲になり11人が行方不明になっている。

天変地異の被害は完全になくすことは不可能だ。とは言うものの、科学技術と防災技術またそれらの理論が発達した日本にしては、堤防の決壊とその結果の洪水また越水、さらにそれらが招く人命損失などが多すぎる、とどうしても考えてしまう。

念のために言っておくけれども、もしも日本でなかったならば、今回の巨大暴風の被害はもっとさらに甚大なものであったろう。でも台風は例えばフィリピンや台湾や韓国ではなく、実際に日本に上陸した。従って、当然ながら、日本の土壌を斟酌して議論しなければならない。

多くの被害の中で僕が特におどろいたのが、東京多摩川の氾濫だ。先進国の首都、しかも世界に名だたる大都会で、川の氾濫、洪水が起こるというのは異常事態だ。ロンドンやニューヨークやパリ、あるいはここイタリアのローマでさえ考えられない事案だ。

そこは国の顔でもある首都の河川だ。面子上もそんな事件が起こってはならない。またそこには必ずと言っていいほど人口が密集している。とても危険な場所だ。

なぜ災害対策が世界のトップクラスである日本の首都でそれが起こったのか、と考えると少し見えてくるものがある。結論を先にいえば、日本が自然を敬う東洋的精神にあふれた国だから多摩川で氾濫が起こった。

日本国は、「自然を征服する」という西洋の根本哲学のひとつに違和感を持つ人々が多く住む国である。人はあくまでも自然の一部であり、自然は人間と対立するものではなく、人間が自然の一部として共存ずるべき関係にある。

一方、西洋では自然は人間によって征服されるべき存在である。人間は自然を征服することによって自らを高め文明を起こしそれを成長させる。この思想のもとに彼らは自然に挑み、屈服させ、人の勢力を伸ばし続けた。

西洋文明の発達の背景にはその強力な哲学がある。その哲学は神の存在によって形成が可能になった。即ち、自然も人間同様に神によって創造されたものである。自然は絶対ではなく、人間と同列の存在なのである。

自然の上には神という絶対の存在がある。人にとってはその絶対の神だけがひれ伏し敬うべき存在である。かくして自然は人によって征服され得る存在になる。

日本を含む東洋の人々はそうは考えない。自然こそこの世の至高の存在であり絶対的な存在である。人間も自然という巨大な存在と概念の一部である。

自然は征服するべきものではなく、また決して征服することなどできない存在。それは共存するべき相手であり、共存することで自然はわれわれを抱擁する。

この根本思想の違いが2019年10月、東京多摩川の氾濫という異常事態を招いた。つまり、自然崇拝の念の強い日本人は、自然を敵とみなして徹底的に対抗する気概が西洋人にくらべて弱いのではないか。

別の表現を用いれば日本人は、ロンドンのテームズ川、パリのセーヌ川、ニューヨ-クのハドソン川、またローマのテベレ川のように、氾濫に備えて川と流れと堤防をがんじがらめに固定し補強することをかすかにためらう。

ほとんど無意識の作用と言ってもいい自然に対する彼我の根本思想の違いが、近代都市東京の河川の治水事業にほんの少しの油断をもたらして、足腰の甘さを形成している、と推断するのはうがち過ぎだろうか?

首都の東京においてさえそうなのだから、油断は全国にあると考えたほうがいい。日本はこれを機に、首都圏はもちろん日本全国の河川を仮借ない方法で整理し整頓して、将来の危難に備えるべきだ。

自然を敬い自然と共存するという日本的な美しい哲学と、多摩川の流れと堤防を、セーヌ川ほかの欧米の大都市の河川のように「鉄壁」に補強し、締め上げ、保護することとは決して矛盾しない。むしろそれがスーパー台風時代の自然との共存の在り方なのではないか。



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