首里城正殿正面800


首里城が焼け落ちてしまった。残念で悲しいことである。それが沖縄のシンボルだからではない。それが日本の数少ない多様性の象徴的な存在だからである。

同城は過去に何度も焼失し、その度に復元されてきた。今回は5度目の被災だが、近い将来また復元されるだろう。それを前提に考えてみた。

首里城は1429年から1879年までの450年間、独立国として存在した琉球王国の王家の居城であると同時に、王国統治の行政機関だった「首里王府」の本部があった場所である。

日本国の外にあった琉球王国のシンボルであり、1879年の琉球処分以降は、沖縄県のシンボルとして見なされることが多いユニークな建物だ。

だが僕は首里城を沖縄一県の表象 ではなく、日本の多様性を体現する重要な象徴だと考えている。だからその焼失がことさらに残念で悲しいのである。

琉球王国は人口17万人程度のミニチュア国家だった。それでいながら東シナ海を縦横に行き交う船団を繰り出して中継貿易を展開。大いに繁栄した。

ちなみに「琉球王国」というのは、沖縄の本土復帰後の初代県知事だった屋良朝苗が、主に観光誘致を目指して発明・普及させた俗称で、正式名は「琉球国」である。ここでは両者を併用する。

琉球国は、幕藩体制下の大国・日本の鎖国政策と、さらなる巨大国家・中国の海禁政策の間隙を縫って交易範囲を東南アジアにまで広げ、マラッカ王国と深い関係を結んだりもした。

琉球国は17世紀に薩摩藩の支配下に入り、同時に中国(清)の冊封下にも組み込まれる体制になったが、依然として独立した王国として存在しつづけた。

もとより王国は、取るに足らない小国に過ぎなかった。だがそこは琉球王国から琉球藩となりさらに沖縄県となっても、日本国の中で異彩を放ち続けた。

異彩の正体は独自の文化である。明治維新後の沖縄は琉球王国というミニ国家が育んだ文化をまとっているために、日本国の中で疎外され差別さえ受けた。

その疎外と差別の残滓は21世紀の今も存在し、特に過重な米軍基地負担の形などになって歴然と生き続けている、と僕は考えている。

世界中に文字通り無数にある文化は、その一つ一つが「他とは違う」特殊なものである。そして全ての文化間に優劣はない。ただ「違い」があるだけだ。

同時に文化は多くの場合は閉鎖的でもあり、時にはその文化圏外の人間には理解不可能な怖いものでさえある。

そして人がある一つの文化を怖いと感じるのは、その人が対象になっている文化を知らないか、理解しようとしないか、あるいは理解できないからである。

つまりこの場合は無知が差別の動機だ。ある文化に属する人々は、無知ゆえに他文化に属する人々を差別し、差別する人々は別の機会には同じ動機で他者に差別される。

愚かな差別者と被差別者は往々にして目くそ鼻くそだ。沖縄を差別する日本人はどこかでその画一性や没個性性を差別され、差別された沖縄の人々もまた必ずどこかで誰かを差別する。

他とは違う、という特殊性こそがそれぞれの文化の侵しがたい価値だ。言葉を変えれば特殊であることが文化の命なのである。普遍性が命である文明とはそこが違う。

ところが特殊であること自体が命である文化は、まさにその特殊性ゆえに、既述のように偏見や恐怖や差別さえ招く運命にある。明治維新後の沖縄の文化がまさにそれだった。

一方、琉球国以外の全国の約260藩は、明治維新政府の誘導の元に天皇の臣民として同一化され没個性的になっていった。

幕藩体制下では各藩を自国と信じていた人々が、西洋列強に追いつきたい明治政府の思惑に旨く誘導されて、「統一日本人オンリー」へと意識改革をさせられて均質化していったのである。 

統一日本国の一部となった沖縄県ももちろん同じだった。しかし同地はその文化のユニークさゆえに、均等性がレゾンデートルだった明治日本全体の中で異端視されつづけた。

その事実は沖縄の人心の反発を招き、沖縄県では他府県同様の統一日本人意識の確立と共に、琉球国への懐古感覚に基づく「沖縄人」意識も醸成され深く根を張っていくことになる。

日本人意識と沖縄人意識が同居する沖縄県民のあり方は、実は世界ではありふれたことだ。特に僕が住むここイタリアなどはその典型である。

イタリア人は自らが生まれ住む街や地域をアイデンティティーの根幹 に置いている。具体的に言えば、イタリア人はイタリア人である前に先ずローマ人であり、ナポリ人であり、ベニス人なのである。

イタリア人の強烈な地域独立(国)意識は、かつてこの国が細かく分断されて、それぞれの地方が独立国家だった歴史の記憶によっている。

日本もかつては各地域が独立国のようなものだった。幕藩体制化においても、各藩はそれぞれが独立国とまでは言えなくとも、藩民、特に藩士らの意識は独立国の国民に近いものだった。

それが明治維新政府の強烈な同一化政策によって、各藩の住民は既述のように日本人としてまとまり、「統一日本人」の鋳型にすっぽりとはめ込まれていった。

沖縄県も間違いなくその一部である。同時に沖縄県は、歴史の屈折と文化の独自性のおかげで、日本国内でほぼ唯一の多様性を体現する地域となり現在に至っている。

日本の多様性を象徴的に体現しているその沖縄県の、さらなる象徴が首里城なのである。その首里城が火事でほぼ完全消滅したのは沖縄県のみならず日本国の大きな損失だ。

さて、

歴史的、文化的、そしてなによりも政治的な存在としての首里城を礼讚する僕は、同時に首里城の芸術的価値という観点からはそれに強い違和感も持つ。

僕は首里城の芸術的価値に関してはひどく懐疑的なのだ。遠景はそれなりに美しいと思うが、近景から細部は極彩色に塗りこめられた騒々しい装飾の集合体で、あまり洗練されていないと感じる。

“首里城は巨大な琉球漆器”という形容がある。言い得て妙だと思う。首里城には琉球漆器の泥くささ、野暮ったさがふんだんに織り込まれている。

泥くささや野暮ったさが「趣」という考え方ももちろんある。ただそれは「素朴」の代替語としての泥くささであり野暮ったさだ。極彩色の首里城の装飾には当てはまらない、と思うのである。

色は光である。沖縄の強烈な陽光が首里城の破天荒な原色をつくり出す、と考えることもできる。建物の極彩色の意匠は光まぶしい沖縄にあってはごく自然なことだ。

しかし、原色はそこにそのまま投げ出されているだけでは、ただ粗陋でうっとうしいだけの原始の色であり、未開の光芒の表出に過ぎない。

美意識と感性を併せ持つ者は、原始の色を美的センスによって作り変え、向上させ繊細を加えて「表現」しなければならない。

僕は今イタリアに住んでいる。イタリアの夏の陽光は鮮烈である。めくるめく地中海の光の下には沖縄によく似た原色があふれている。

ところがここでは原色が原始のままで投げ出されていることはほとんどない。さまざまな用途に使われる原色は人が手を加えて作り変えた色である。

あるいは作り変えようとする意思がはっきりと見える原色である。その意思をセンスという。センスがあるかないかが、沖縄の原色とイタリアの原色の分かれ目である。

沖縄に多い原色には良さもないわけではない。つまり手が加えられていない感じ、自然な感じ、簡素で大らかな感じが沖縄の地の持つ「癒やし」のイメージにもつながる。

首里城の光輝く朱色の華々しい装飾は、見る者を引き付けて止まない。また見れば見るほどそこには味わい深い情緒が増していくようなおもむきもある。

だがそれは時として、原色のあまりの目覚ましさゆえに、僕の目にはケバい、ダサい、クドいの三拍子がそろった巨大作品に見えないこともないのである。

首里城の名誉のために言っておけば、しかし、そうした印象は首里城に限らない。日本の歴史的建築物には見方によってはケバい、ダサい、クドいの形容にあてはまる物が少なくない。

いくつか例を挙げれば、日光東照宮の陽明門と壁の極彩色の彫刻群や、伏見稲荷と平安神宮の全体の朱色や細部の過剰な色合いの装飾なども、ともすると僕の目には少し彩度が高過ぎるというふうに映る。

いうまでもなくそれらは、 建物がまとっている歴史的また文化的価値の重要性を損なうものではない。だが歴史的建造物は、そこに高い芸術的要素が加わった際には、さらに輝きを増すこともまた真実である。



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