100メートル近い高さがあるベニスのサンマルコ広場の鐘楼の足元には、高潮の潮位を示す掲示版メーターが備えられている。2019年11月12日、メーターは187センチを示した。史上最悪だった1966年の194センチに次ぐワースト記録である。
ベニスの高潮は秋から春にかけて起きる。12月の今のこの時期も真っ盛りだ。アフリカ・サハラ砂漠生まれの風「シロッコ」がアドリア海に吹き込んで、海面の潮を吹き集めて北のベニス湾に押し込む。それによって街が浮かぶラグーナと呼ばれる遠浅の海の海面が急上昇して、ベニスを水浸しにする。
サハラ砂漠が起源のシロッコは元々は乾いた熱い風だが、地中海を吹き渡る間に水気を吸って湿る。熱く湿った風となったシロッコは、アドリア海のみならずイタリア中に吹きまくって環境に多大な影響を与える。それはヒマラヤ起源の大気流が影響して、日本に梅雨がもたらされるのにも似た自然の大いなるドラマである。
シロッコが高潮をもたらす気象状況は、ベニスの街が誕生した5世紀半ば以来えんえんとつづいてきた。だが近年、高潮は洪水と呼ぶほうがふさわしいほど悪化して、被害の拡大がつづいている。災害は一年の半分近い期間にわたって起きるが、特に雨が降りやすい晩秋から冬の初め頃に多い。
シロッコの被害を別にしてもベニスは水没しつつある。周知のようにベニスは、遠浅の海に人間が杭を打ち込み石を積みあげて土地を構築・造成し建物を作っていった街である。そこは海抜1メートルほどの高さしかない。それにもかかわらずに地下のプレートが毎年数ミリづつ沈下している。放っておいても数百年もたてば海抜0メートルになる計算だ。
それに加えて、地域の工業化に伴って地下水を汲み上げ過ぎたために、人工造成された街の地盤が沈下する悲劇も起きた。現在は少し良くなったが、危機的な状況に人々が気づかなかった 1950年から70年にかけての20年間だけでも、地盤は12センチも沈降したのである。
元からあるそれらの悪条件に加えて、近年は温暖化による水位の上昇という危難も重なった。そのためにベニスでは、自然と人工の害悪が重層的に影響し合って地盤沈下が進行し、そこに低気圧や季節風による高潮が襲う、という最悪の構図が固定化してしまったのである。
課題の多いベニスには、ここ数年は中国人観光客が大量に押し寄せて、これまた元からあるオーバーツーリズム問題に拍車がかかった。そのため彼らのマナーの悪さなどへの批判も重なって、中国人の重さでベニスの沈下速度が加速している、といったデマが流れたりもするほどである。
街では年々悪化する浸水被害を食い止めようとして、多くの打つ手 が編み出され試行錯誤が繰り返されてきた。その中で究極の解決策と見られたのが、ベニスの周囲に可動式の巨大な堤防を設置して高潮をブロックする計画、いわゆる「モーゼ・プロジェクト」である。
モーゼがヘブライ人を率いてエジプトから脱出した際、海が割れて道ができた、という旧約聖書の一節を模してそう名づけられた壮大な計画は、アドリア海からラグーンに入る海流の入り口となる海中の3箇所の自然道に、防潮ゲートを設置するというもの。
固定式の水門だと海流を止めて生態系を壊してしまう危険が高いため、可動式のアイデアになったその堤防は、1980年代に着想され2003年から工事が始まった。現在までにおよそ7000億円もの巨費が投入されてきている。
計画は国を挙げて進められているが一向に完成せず、推定されていた16億ユーロの初期費用が膨らみつづけて、55億ユーロ以上(約7000億円)にまで達した。この先も予算は際限なく膨張するに違いないという批判も多い。
無責任にも見える不手際はそれだけにとどまらない。なんと55億ユーロのうちの20億ユーロが汚職に使われたと見られているのだ。それに関連して2014年にはベネチア市長を含む35人が贈収賄で逮捕された。政財界を巻きこんだ醜聞は後を絶たない。
「モーゼ・プロジェクト」の完成は当初2014年とされていたが、それは2016年に延び、さらにほぼ2年ごとに延長されつづけている。現在は2021~22年の完成予定とされているが、それを信じる者は文字通り誰もいない。
「モーゼ・プロジェクト」の混乱と年々悪化する高潮被害を受けて、ベニス救済へ向けたあらたなアイデアも生まれている。その中でもっとも注目されているのが、「水には水を」のコンセプトで推進されている「地盤への海水注入作戦」である。
作戦ではベニスに直径10キロの円を描く12本の井戸を掘って、何年もかけて膨大な量の海水を地下に注入する。すると海水を注ぎ込まれた地層が膨張し隆起して、地盤沈下の進行が止まる、というものである。
ベニス近くのパドバ大学の教授が提案したそのアイデアは、「モーゼ・プロジェクト」よりもはるかに低いコストで実行することができ、成功した場合は「モーゼ・プロジェクト」と併用するか、あるいは「モーゼ・プロジェクト」そのものが不要になる可能性も秘めている。
なんでもいいから美しいベニスを早く救ってくれ、というのがベニスを愛してやまない僕の腹からの願いである。だが今のままでは願いは空しくなる可能性も高い。そこでもうこれ以上ベニスに観光客が増えないことを祈りつつ、より多くの人が沈む前のベニスを観たほうがいい、と矛盾する思いにもとらわれたりする今日この頃である。
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