DVD-Bohemian-Rhapsody


ことしに入って早々(1月3日)に、イギリス娯楽小売業者協会(ERA)が、2019年に英国民が自宅で観た映画のランク付けを発表した。

それによると2018年に大ヒットした映画「ボヘミアン・ラプソディ」がトップになった。映画はDVDやブルーレイ、またダウンロードで170万部が売れた。

「ボヘミアン・ラプソディ」は2019年1月6日、第76回ゴールデングローブ賞の作品賞に輝き、その約2ヶ月後にはアカデミー賞の主演男優賞なども受賞した。

大ヒットした「ボヘミアン・ラプソディ」に関しては、日本を含む世界中で多くの評者や論者がケンケンガクガクの言い合いを演じた。

また欧米、特に映画の主題であるクイーンの母国イギリスや、制作国のアメリカのメディアなども盛んに評したが、それらは概ね批判的で観客の好感度とは大きく異なる奇妙なねじれ現象が起こった。

僕も当時「ボヘミアン・ラプソディ」を観た。結論を先に言えば、文句なしに大いに楽しんだ。映画の王道を行っていると思った。王道とは「エンターテインメント(娯楽)に徹している」という意味である。

メディアや批評家や文化人やジャーナリストなどの評論は、“面白ければそれが良い映画”というエンターテインメント映画の真実に、上から目線でケチをつけるつまらないものが多かった。

そのことへの反論も含めて僕は当時記事を書くつもりだった。が、いつもの伝で多忙のうちに時間が一気に過ぎてしまって機会を逃した。当時僕はブログ記事の下書きを兼ねた覚え書きに次のような趣旨を記している。

『映画の歴史を作ったのは、米英仏伊独日の6ヵ国である。6ヵ国を力関係や影響力や面白さでランク付けをすると、米仏英伊日独の順になる。個人的には面白さの順に米日伊仏英、遠く離れて独というところ。それら6ヵ国のうち、英仏伊独日の映画は没落した。娯楽を求める大衆の意に反して、深刻で独りよがりの“ゲージュツ”映画に固執したからだ。

ゲージュツ映画とは、台頭するテレビのパワーに圧倒された映画人が、テレビを見下しつつテレビとは対極の内容の映画を目指して作った、頭でっかちの小難しい作品群だ。作った映画人らはそうした映画を「芸術」作品と密かに自負し、芸術の対極にある(と彼らが考える)テレビ番組に対抗しようとした。彼らはそうやって大衆に圧倒的に支持されるテレビを否定することで、大衆にそっぽを向き映画を失陥させた。

「ボヘミアン・ラプソディ」を批判する評者の論は、映画を零落させた映画人の論によく似ている。大衆を見下し独りよがりの「知性まがいの知性」を駆使して、純粋娯楽を論難する心理も瓜二つだ。

一方で大衆の歓楽志向を尊重し、それに合わせて娯楽映画を提供し続けた米国のハリウッド映画は繁栄を極めた。ハリウッドの映画人は、テレビが囲い込んだ大衆の重要性を片時も忘れることなく、テレビの娯楽性を超える「娯楽」を目指して映画を作り続けた。「ボヘミアン・ラプソディ」はその典型の一つだ。

*6ヵ国以外の国々の優れた監督もいる。一部の例を挙げればスウェーデンのイングマール・ベルイマン 戦艦ポチョムキンを作ったロシアのセルゲイ・エイゼンシュテイン とアンドレイ・タルコフスキー、スペイン のルイス・ブニュエル 、インドの サタジット・レイ 、 ポーランド のアンジェイ・ワイダ など、など。彼らはそれぞれが映画の歴史に一石を投じたが、彼らの国の映画がいわば一つの勢力となって映画の歴史に影響を与えたとは言い難い。

*インドは映画の制作数では、中国やアメリカのそれさえ上回ってダントツの一位だが、中身が伴わないために世界はほとんど同国の映画を知らない。


映画「ボヘミアン・ラプソディ」の批判者は、主人公フレディの内面を掘り下げる心理劇を見たかった、リアリィティーが欠如している、社会性・政治性、特に同性愛者を巡る政治状況を掘り下げていない、など、など、あたかも映画を徹底して退屈に仕上げろ、とでも言わんばかりの愚論を展開した。

それらの要素はむろん重要である。だがひたすら娯楽性を追及している映画に「深刻性」を求めるのは筋違いだし笑止だ。それは別の映画が追求するべきテーマだ。なによりも一つの作品にあらゆる主張を詰め込むのは、学生や素人が犯したがる誤謬だ。

「ボヘミアン・ラプソディ」の制作者は音楽を中心に据えて、麻薬、セックス、裏切り、喧嘩、エイズなど、など、の「非日常」だが今日性もあるシーンを、これでもかと盛り込んで観客の歓楽志向を思い切り満足させた。それこそエンターテインメントの真髄だ。

そこに盛り込まれたドラマあるいは問題の一つひとつは確かに皮相だ。他人の不幸や悲しみを密かに喜んだり、逆に他人の幸福や成功には嫉妬し憎みさえする、大衆の卑怯と覗き趣味を満足させる目的が透けて見える。だが同時に、薄っぺらだが大衆の心の闇をスクリーンに投影した、という意味では逆説的ながら「ボヘミアン・ラプソディ」は深刻でさえあるのだ。

批判者は大衆のゲスぶりを指弾し、それに媚びる映画制作者らの手法もまた糾弾する。だが大衆の心の闇にこそ人生のエッセンスが詰まっている。それが涙であり、笑いであり、怒りであり、憎しみであり、喜びなのである。そこを突く映画こそ優れた映画だ。

「ボヘミアン・ラプソディ」はクイーンや主人公のフレディのドキュメンタリーではなく、飽くまでもフィクションである。実際のグループや歌手と比較して似ていないとか、嘘だとか、リアリティーに欠ける、などと批判するのは馬鹿げている。

批判者らはそれほど事実がほしいのなら、「ボヘミアン・ラプソディ」ではなくクイーンのドキュメンタリー映像を見ればいい。またどうしても社会問題や心理描写がほしいのなら、映画など観ずに本を読めばいいのだ。

映画館に出向いて、暗い顔で眉をひそめつつ考えに浸りたい者などいない。エンターテインメント映画を観て主人公の内面の深さに感動したい者などいない。「ボヘミアン・ラプソディ」にはそうした切実なテーマがないから楽しいのだ。

それでも、先に言及したように、主人公と父親との間の相克や、エイズや、麻薬などの社会問題や背景などの「痛切」も、実は映画の中には提示されてはいる。だがそれらは映画の「娯楽性」に幅を持たせるために挿入された要素なのであって、メインのテーマではない。

深刻なそれらの要素をメインに取り上げるならば、それは別の映画でなされなければならない。そしてそれらがメインテーマになるような映画はもはや「ボヘミアン・ラプソディ」ではない。誰も観ない、重い退屈な作品になるのがオチである。

主人公の内面を掘り下げろとか、政治状況を扱えとか、人物のリアリティーとかドラマの緻密な展開を見たい、などと陳腐きわまる難癖をつける評論家は悲しい。そうした評論がもたらしたのが、映画の凋落である。言葉を替えれば映画は、大衆を置き去りにするそれらの馬鹿げた理論を追いかけたせいで衰退し崩落した。

2018年、「ボヘミアン・ラプソディ」は世界中の映画ファンを熱狂させた。観客の圧倒的な支持とは裏腹の反「ボヘミアン・ラプソディ」評論は、映画を知的営為の産物とのみ捉える俗物らの咆哮だった。映画は知的営為の産物ではあるが、それを娯楽に仕立て上げることこそが創造でありアートである。大衆がそっぽを向く映画には感性も創造性も芸術性もない。

そこには芸術を装った退屈で傲岸で無内容の「ゲージュツ」があるのみだ。「ボヘミアン・ラプソディ」が2018年には映画館で、また翌年の2019年には英国の家庭で圧倒的な支持を受けたのは、それが観客を楽しませ感動させる優れた映画であることの何よりの証しである。


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