
カルロス・ゴーン逃亡者(:容疑者、日産元会長、逃亡犯などの呼称もあるが逃亡者で統一する)のレバノンでの記者会見映像を逐一観た。それは中東人や西洋人が、自らを正当化するために口角泡を飛ばしてわめく性癖があらわになった、典型的な絵だった。見ていて少し気が重くなった。
だが、そうはいうものの、日本の「人質司法」の在り方と、ゴーン逃亡者の逮捕拘留から逃走までのいきさつに思いを馳せてみた場合、ゴーン逃亡者はおそらく犠牲者でもあるのだろう、というふうにも見える、と告白しなければならない。
弁護士の立会いなしで容疑者を取り調べたり、自白を引き出すために好き勝手にさえ見える手法で長期間勾留したり、拷問とは言わないまでも、逮捕したとたんに「推定有罪」の思惑に縛られて、容疑者を容赦なく窮追するという印象が強い日本の司法の実態は、極めて深刻な問題だ。
取調べでの弁護人立ち会い制度は、米国やEU(欧州連合)各国はもちろん、韓国、台湾などでさえ確立している。日本でそれが否定されるのは、密室での自白強要によって「真実」が明らかになる、と愚にもつかない偏執に取り付かれている警察が、人権無視もはなはだしい異様な自白追及手法に固執するからだ。
そうしたことへの疑問などもあって、僕はゴーン逃亡者が「容疑者」でもあった頃の日本での扱われ方に、少なからず同情もしていた。だが彼のレバノンでの記者会見の立ち居振る舞いを観て、今度は僕の中に違和感もムクリと湧き上がった。言い分があまりにも一方的過ぎるように感じたのだ。
だが再び、そうはいうものの、ゴーン逃亡者のみならず日本司法も、直ちには信用できないやっかいな代物だという真実に、日本国民はそろそろ気づくべきとも思う。日本の司法制度では、逮捕された時には誰でも長期間勾留されて、弁護人の立ち会いも認められないまま毎日何時間も尋問され続ける可能性が高い。
容疑者は罪を認めて自白しない限り、果てしもなく勾留される。そんな日本の司法の実態はうすら寒いものだ。密室の中で行われる警察の 取調べは、戦前の特高のメンタリティーさえ思い起こさせる。まるで警察国家にも似て非民主的で閉鎖的、且つ陰湿な印象が絶えず付きまとう。
日本国民のうちの特にネトウヨ・ヘイト系の排外差別主義者らは、例えば韓国の司法や政治や国体や人心をあざ笑い優越感にひたるのが好きだ。そこには自らをアジア人ではなく「準欧米人」と無意識に見なす「中は白いが表は黄色い“バナナ”日本人」の思い込みもついて回っている。だが日本の司法制度やそれにまつわる人心や民意や文明レベルや文化の実相は、まさしくアジア、それも韓国や北朝鮮や中国に近いことを彼らは知るべきだ。
さらに言えば、北朝鮮のテレビアナウンサーの叫ぶような醜悪滑稽なアナウンスの形は、戦時中の大本営のアナウンスの様子と寸分も違わない。北朝鮮の狂気は、軍国主義がはびこっていたつい最近までの日本の姿でもあるのだ。そんなアジアの後進性が詰まっているのが日本の刑事司法制度であり、ゴーン事件の背景にうごめく日本社会の一面の真実だ。そこの住民がバナナ的日本人、即ちネトウヨ・ヘイト系の排外差別主義者らなのである。
そのことに思いをめぐらせると、カルロス・ゴーン逃亡者と彼にまつわる一連の出来事は、日本司法の課題を抉り出しそれを世界に向けて暴露したという意味で、ゴーン逃亡者が日産の救世主の地位から日本国全体の救世主へと格上げされた、と将来あるいは歴史は語りかけるかもしれない、というふうにさえ見える。
ゴーン逃亡者は、日本の刑事司法制度を「有罪を前提として、差別が横行する、且つ基本的人権の否定されたシステムであり、国際法や国際条約に違反している」などと厳しく指弾した。「有罪を前提」や「差別が横行」などの非難は、彼の主観的な見解、と断じて無視することもできるが、国際法や国際条約に違反している、という批判はあまりにも重大であり看過されるべきものではない。
ではゴーン逃亡者が言う、日本が違反している国際法や国際条約とはなにか。それは第一に「世界人権宣言」であり、それを改定して法的に拘束力のある条約とした自由権規約(国際人権B規約)だと考えられる。世界人権宣言は1948年に国連で採択された。そこでは全ての国の全ての人民が享受するべき基本的な社会的、政治的、経済的、文化的権利などが詳細に規定され、規約の第9条には「何人も、ほしいままに逮捕、拘禁、または追放されることはない」と明記されている。
さらに自由権規約の同じく第9条3項では、容疑者・被告は「妥当な期間内に裁判を受ける権利」「釈放(保釈)される権利」を有するほか「裁判にかけられる者を抑留することが原則であってはならない」とも規定している。また第10条には「自由を奪われた全ての者は、人道的にかつ人間の固有の尊厳を重んじて取り扱われなければならない」とも記されている。
ゴーン逃亡者は日本では、4度逮捕された上に起訴後の保釈請求を2回退けられた。加えて拘置所に130日間も勾留された。また逮捕から1年以上が過ぎても公判日程は決まらなかった。そうした状況は国際慣例から著しく逸脱していて、国際法の一つである自由権規約に反していると言われても仕方がない奇天烈な事態である。
ゴーン事件に先立つ2013年、国連の拷問禁止委員会が、容疑者の取り調べの改善を求める対日審査を開いた。その際「日本の刑事司法は自白に頼りすぎ、中世のようだ」との指摘が委員から出た。日本の司法は未だに封建社会のメンタリティーにとらわれていて、時として極めて後進的で野蛮だと国際的には見られているのだ。
日本の司法は「お上」の息のかかった権威で、かつての「オイコラ巡査」よろしく、「オイコラ容疑者、さっさと白状しろ」と高圧的な態度で自白を強要する。それは、繰り返しになるが、日本の刑事司法が封建時代的なメンタリティーに支配されていることの証し、ととらえられても仕方がない。欧米の猿真似をしているだけの日本国の底の浅い民主主義の全体が、その状態を育んでいる、という見方もできる。
一方カルロス・ゴーン逃亡者も、大企業を率いたりっぱな経営者で品高い目覚しい紳士などではなく、自己保身に汲々とするしたたかで胡散臭い食わせ物である、という印象を世界に向けて発信した。ゴーン逃亡者も日本の司法制度も、もしも救われる道があるのならば、一度とことんまで検証されけん責された後でのみ再生を許されるべき、と考える。
ゴーン逃亡者の一方的な言い分や遁走行為が、無条件に正当化されることはあり得ない。しかし、「人質司法」とまで呼ばれる日本の刑事司法制度の醜悪で危険な在り方や、グローバルスタンダードである「弁護人の取調べへの立ち会い」制度さえ存在しない実態が、世界に知れ渡ったのは極めて良いことである。なぜなら恐らくそこから改善に向けてのエネルギーが噴出する、と考えられるからだ。ぜひ噴出してほしい。