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中国発新型コロナウイルスに関して心配していたことが起こった。ローマの有名音楽学校が、中国人、日本人、韓国人を含む東アジアの留学生全てをいっしょくたにして、通学を禁じる校長の通達を発表したのだ。コロナウイルス恐怖症に陥った人々が、日本人も中国人と同じと見なしてあからさまな差別に出たということになる。

世界中のウイルスにまつわる情報は、イタリアまたローマも含めて、大手メディアがふんだんに報道しているだろうから、僕はいつものように現地住まいの者の実感に基づいて、ニッチビジネスならぬ個人的なこだわりや具体的な話に徹しようと思う。

有体に言えば、ローマの音楽学校の処置を誰もが納得しているわけではない。支持する者と批判する者が真っ二つに割れて存在する、というのが実情だ。支持する者は隠微な状況なので「仕方がない」と言う。批判する者はそこに人種差別を見て不快に思う。僕もそのひとりだ。

だが新型コロナウイルス問題のようなケースでは、人種差別や偏見が横行するのは普通のことだ。差別や偏見は、人が差別し偏見を持つ対象の実態を「知らない」場合に起こる。

新型ウイルスの実態は全人類にとっての謎だ。それが中国で発生し、まず中国で猛威を振るっている。人々は得体の知れないウイルスを恐れ、それを媒介するキャリアとなってしまった中国人を恐れる。「怖いウイルス」が「怖い中国人」にもなるのだ。

そんな状況ではむしろ偏見や差別が起こらないほうが不思議なくらいだ。むろん多くの良識ある人々は中国人を差別しない。冷静であろうとする。それが当たり前であるべきだ。

だが同時に、多くの人々は偏見し差別する。ローマの音楽学校のように。そして、少しのエスカレートで偏見差別は拡大し強化される。中国人へのそれが韓国人や日本人へといともたやすく伝播する。

いうまでもなくそうした根拠のない偏見や差別は是正されなければならない。同時に僕は日本の外にいて日本を客観的に見る者として、たちまち感じることがある。だからここではあえてそのことを取り上げて書き留めておくことにした。

つまりローマで起きた東洋人差別は、日本人がアジア人なのであり、中国人や韓国人はもとよりその他のアジアの人々に近い人種であり文化を持つ国民だという、当たり前だが多くの日本人が忘れている現実を思い出させてくれる、重要な出来事でもあるということだ。

日本人が差別されたというこの報告を読んで、傷ついたり腹を立てたりする読者もきっと多くいるだろう。その中身を端的に言ってしまえば 、日本人を中国人と一緒にするな、日本人は韓国人とは違う、などという思い上がりに基づく怒りだ。

あるいは、日本人をそれらの「アジア人」と同じように見なす、イタリア人への怒りを覚える人もいるだろう。だが断っておくけれども、イタリア人はヨーロッパの人々の中で一二を争うくらいの親日的な国民だ。

そんな国民でさえ、混乱し恐怖が支配する風潮の中では当たり前の現実に目覚め、普通に差別さえする。つまり結局日本人は、中国人や韓国人とその見た目はいうまでもなく、文化や歴史や民族性などもよく似たほぼ同じ人種なのだと。

それは少しもおかしなものではない。それをおかしいと感じる日本人こそ異常なのである。言葉を替えれば、日本人が準白人つまり表は黄色いのに中身が白くなってしまった“バナナ的人間”に成り果てていることが、むしろ奇怪なことなのだ。

日本人はイタリア人を含む欧米人が、われわれを「当たり前に」アジア人と見なすことを怒るのではなく、自らが持つ無意識の自己偏見、つまり私はアジア人ではない、という奇怪噴飯ものの思い込みにこそ恥じ入り、怒るべきなのだ。

日本人は自らが豊かであり民度が欧米並みに高いと思うならば、欧米人の感覚でつまり欧米の猿真似をして、同じアジア人を見下すのではなく、中国や韓国やその他のアジアの国々の地位の向上を目指して動くべきだ。欧州が全体的に豊かで民度の高い地域になっているように、グローバル世界てアジア全体が豊かで民度の高い地域となるように願い行動するべきなのだ。

欧州では電車やバスの中などで、中国人を筆頭にするアジア系住民が差別に遭ったり暴力的な扱いを受けるなどのケースが相次いでいる。イタリアのみならずフランスでもスペインでも起きた。日本人も対象になったイタリアのようなケースは今は稀だが、状況が改善しなければそれは増加する運命にある。

そうした厳しい現実を、日本人が自らを見直す好機としても捉えることができるなら、あるいはそれも良しとするべきことなのかもしれない。


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