
イタリアの対COVID-19戦の惨状を気遣って、日本から多くの見舞い電話やメールまたSNSメッセージなどをいただいている。
僕は一つひとつに丁重にお礼を述べた後に必ず「日本もイタリアと同じ程度に心配だ。どうぞお気をつけて」と付け加えている。
すると、きょとん、とした顔が見えるような言い方で「日本は心配は心配ですが、イタリアほどではない」というニュアンスの返答が来ることが多い。
イタリアの、特に僕の住むロンバルディア州の感染者数や死者数、また感染拡大のスピードなどのすさまじさは、言うまでもなく日本の比ではない。
僕の身の回りは一見平穏だが、大病院に始まる医療施設は地獄の様相を呈している。それは臨場感を伴う映像とともに主要TV局などをはじめとするメディアによって、これでもかとばかりに報道され続けている。
僕はそれに加えてインターネットで情報を収集し、衛星放送でリアルタイムに日本の状況を見、BBCその他の英語放送で欧米また世界の動きを逐一追っている。
そんな中で気になるのが、日本政府の「情報ぼかし」にも似た言動が醸し出す「もやもや感」だ。情報ぼかしは主に、オリンピックをどうしても開催したい思いから始まったようだ。
典型的な例の一つが、集団感染を敢えて「クラスター」と言い換える姑息さだ。その言葉は政府の代弁者の専門家がNHKに出演して突然言い出した。僕はCovid19問題が表に出て以降、衛星生中継でNHKの夜7時と9時のニュースを欠かさず見てきたのでそのことにすぐに気づいた。
「集団感染」と言えばひどく生々しく、善良無垢な国民のうちには恐怖感を覚える者も多いに違いない。だからわざわざ「クラスター(cluster)」という疫学上の「感染者集団」を表す英語を用いることを思いついたのではないか。
日本語は実に便利だ。外来語を使えば物事の本質をぼかす効果があるケースが多い。たとえば「性交」という日本語をセックスと言い換えれば、生々しさ感が薄れる。同じく「集団感染」を聞きなれないクラスターと言い換えれば、一息つくような安心感が出る。
僕にはその言い換えは、神頼みにも似た無責任な心理状況の顕現に見える。だが新型ウイルスとの戦いも、その結果に左右されるオリンピック開催も、神頼みや希望的観測やゴマカシでは決して勝ち取ることはできない。
多くの労力と金と時間と人々の願いを注ぎ込んで準備をしてきたオリンピックを、万難を排して開催したい気持ちは理解できることだ。だがコロナ問題で世界の状況は一変した。日本もその世界の一部なのだが、例によって世界の情勢に追(つ)いていけず、ズレた言動と施策に固執しているように見える。
何度でも言うが、オリンピックを開催する時は「日本一国だけが新型コロナウイルスから自由」ではなく、「世界が新型コロナウイルスから自由」でなければならないのだ。日本はその単純な方程式さえ読み解けないようだ。あるいは読み解けない振りをしている。
日本の感染者数が本当に少ないのならば喜ばしいことだ。だがそれがウイルス検査数の少なさから出ている結果なら、やっぱりどうしても危険だと思うのだ。そのこともまた繰り返して言っておきたい。
日本政府の高官や御用学者などが好きな言い方を用いれば、イタリアは2月21日にクラスターに見舞われ(クラスターの存在が明らかになり)2月22日~23日にかけてオーバーシュート(爆発的感染拡大)が起き、今も起きつづけている。
2月21日までのイタリアは、武漢からの中国人旅行者夫婦と同地から帰国したイタリア人男性ひとり、合計3人の感染者をうまく隔離し、世界に先駆けて中国便を全面禁止にするなど、余裕しゃくしゃくと言っても過言ではない状況にあった。当時の日本の感染者は、クルーズ船を含めて80名前後でイタリアよりもはるかに深刻に見えた。
だがイタリアの状況は一変して、誰もが知るように地獄絵的な状況になり、日本は一見、感染拡大を抑え込んで安全圏にいるように見える。再び言う。それがまぎれもない真実ならこれに越したことはない。だが僕は今日も、2通の見舞いメッセージへのお礼文に「イタリアはとんでもないことになっています。でも日本もとても心配です」と書き加えずにはいられなかった。