衛星生放送で日本から送られてきた緊急事態宣言の内容をぱっと見た印象をひとことで言えば、それは罰則を伴わない一部地域のロックダウンである。
安倍首相はロックダウンではない、と強調しているが、発令されたのは罰則の代わりに国民の「同調圧力」を行政が利用するロックダウン以外のなにものでもない。
国民の同調圧力とは、大半の国民が自発的に国や都道府県の自粛要請を受け入れ、それをしないものを反乱者、または戦時中の古い言い回しなどに従えば非国民などと指弾して、社会から排除する衆寡敵せずの圧力のことである。
言葉を替えれば、何事につけ主体的な意見を持たず、「赤信号、皆で渡れば怖くない」とばかりに大勢の後ろに回ってこれに付き従う者、つまり大半の日本国民の行動パターンであリメンタリティーである。僕はそれを「大勢順応・迎合主義」と定義している。
政府は日本社会のその悪弊あるいはムラ気質を利用しつつ、自主的に行動を規制するという建前が、実は強制以外のなにものでもないことを、見て見ぬ振りをしている。いつものことだ。
だがそうはいうものの、緊急事態宣言が新型コロナウイルスの感染拡大を抑えるならこれに越したことはない。日本社会のムラ精神は宿弊そのものの不快な存在だが、今はCovid19の殲滅が全てに優先する。
また、戦前・戦中の国家による国民の監視と統制の歴史と、それを完全には総括していない日本の民主主義の脆弱を慮った場合には、強制を伴わないロックダウンは歓迎するべき事態、という見方もできる。
しかしながら7都道府県に限定した緊急事態宣言あるいは「日本式ロックダウン」は、おそらく十分ではないだろう。経済をできる限り停滞させることなく新型コロナも抑止する、という野望はここイタリアに始まる欧州各国とアメリカが必死で目指しているものだ。が、誰一人として成功していない。
安倍政権が至難の目標を掲げて国を引導しようとするのは頼もしいことだ。しかし、経済を構成する多くの事業や事業者や労働者が「自粛する」とは、裏を返せば人々が活動を「自主的に」継続して外出をしては動き回ることを意味し、それはウイルス感染拡大の大きなリスクを伴う行為であることを忘れるべきではない。
日本はここまで確かに感染拡大のスピードをうまくコントロールしているようにもみえる。オーバーシュートつまり突然の感染爆発が起きていないのがその説明だ。だがもしも感染爆発が起きて事態が制御不能になったときには、安倍首相は、今このときに強制力を伴った正しい意味のロックダウンを行わなかった責任を負わされる羽目になるのかもしれない。