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2月初め以来、新型コロナウイルスにまつわる話ばかりを書いてきた。なにしろ突然イタリアが世界最悪のCovid19跋扈地となり、中でも僕の住まう村を含む北部ロンバルディア州が、正真正銘の感染爆心地となった。身の危険も感じつつそのことについて書き続けてきた。

イタリアは相変わらず苦境の中にいる。日本は「日本式のロックダウン」つまり緊急事態宣言の延長を決めた。新型ウイルスはそれ自体のおぞましさはさて置いて、良い意味でも悪い意味でもあらためて欧州と日本の根本的な違いにも気づかせてくれた。それを実感できるのは外国に住まう者の特権、というふうにも思う。

古来、祖国を出て外国をさまよう者には根無し草の悲哀というものが付きまとうものだが、僕の中にはそういう気分が全く生まれなかった。それは生活や境遇や生業などが原因で「無理やり」国を出なければならなかった人々と違って、僕が「すき好んで」外国に出奔した人間だからだろう。しかも英国、米国、ここイタリアと移り住んだ。その間には多くの国々も訪れた。

悲哀など感じる暇はなかった。今後もさらに多くの国や地域を旅するつもりでいたところに、新型コロナウイルスの惨禍がやってきた。人生はげに何があるかわからない。新型コロナはむろん憎むべき変災だが、それには人間の驕りへの懲罰、という意味合いが込められているようにも感じる。人間はコロナ禍を機に少しは謙虚になっていくのかもしれない。

そうなれば人類も捨てたものではない。世界中でたくさんの人がバタバタ倒れている今はまだ少し早く、敢えて口にすれば不謹慎のそしりを免れない、と感じつつもあえて言葉を選ばずに書いておきたい。つまり、もしも新型コロナウイルスのおかげで人間が「自然や和平や科学や道理の前に恭謙な存在」になるのなら、コロナ禍もまた悪くはないのかもしれない、と。

月9ドラマ「監察医 朝顔」

民放のドラマは欧州では数ヶ月~半年ほどの遅れで放映されることが多い。監察医の主人公と刑事の父親と夫に絡めて、東日本大震災で行方不明になった母親と、彼らが仕事で関わる「遺体」を輻輳させ深化させる手法のこのドラマも同じ。イタリアが新型コロナウイルス感染爆発の地獄に陥る直前に最終回が放映された。

途中の回では、行き倒れた老人と息子が意味深な親子関係だったらしいことを匂わせるエピソードを挿入しながら、結局ふたりの間の壮絶な(?)ドラマは描かれなかった。それはシリーズのまたドラマ構成上のあきらかな破綻だ。

「そこにある銃は発砲されなければならない」とするいわゆるチェーホフの銃は、ドラマ作りにおけるプロットの重要性を説く理論で、劇中に提示されるあらゆるものには意味がある、という本則を伏線のあり方にからめて語っている。言葉を変えれば「劇中に余計な要素を入れてはならない」ということ。「監察医 朝顔」の死んだ老人と息子のエピソードがまさにそれだ。

突然提示された行き倒れの老人と息子のエピソードは、そこに披露された以上必ずストーリーが展開され深化されて全体の中の必然にならなければならない。ところが一切そういうことは起きず、エピソードは無意味にそこに投げ出されて無意味に消えるのである。

最終回では津波に流された母親の死のトラウマを克服する朝顔が描かれる。それはいいのだが、夫の桑原があるいは事故で死ぬのか?と視聴者の気をひきつける展開を示唆しておきながら、何もなかったという安易なドラマ作りになっている。それもまた行き倒れの父親と息子の挿話と同じ粗略さでつまらない。

もう一つ重要な瑕疵に見えるコンテンツを指摘しておきたい。

朝顔の監察チームは、それぞれが医学のエキスパートだが、ドラマで重要な役割を負っている「死体」を常に「ご遺体」と呼ぶ。僕はそこにも強い違和感を覚えた。実際の監察医たちもそうなのだろうか?死体を遺体と呼ぶのは、死んだ人への尊称である。

「ご遺体」と呼ぶのはもっと真摯な言葉だ。特に日本には死者を貶めないという風習がある。悪人でも亡くなってしまえば仏であり敬意の対象だ。ほとんどの日本人はそれを肯定的にとらえる。だが死体を解剖して死の謎を解明する監察医は科学者だ。科学者は、科学する対象に対しては余計な感情移入をしないほうがいい。してはならない。それでなければ冷静な分析や考察や解析が雲る可能性がある。

「ご遺体」という言葉は、ドラマを観ている視聴者の心情に配慮してのフィクションだと思うが、余計な忖度だ。もしも実際の監察医らが、遺骸を常に「ご遺体」と呼んでいるようなら、僕はもっとさらに違和感を覚えるだろう。行過ぎた礼はマナーではなく、慇懃無礼という不実だ。


壇蜜のイスタンブール

壇蜜がトルコのイスタンブールを旅する紀行ドキュメンタリー『壇蜜 生と死の坩堝』 。壇蜜というタレントはとても興味深い。女性的という意味でもそうだが、知性的にもなにかがある、と感じさせる。遺体衛生保全士 であったり葬儀の仕事をしていた体験などが、艶っぽい外観と不思議に調和している気配があって面白い。

街の雰囲気も彼女の自然体の紀行報告も悪くなかった。僕も知っているイスタンブールの街が別の印象になって提示されていた。ベリーダンサーとの交流シーンでは、ひたすら性的なだけと見られがちなベリーダンスが、激しい体の動きによって人を楽しませることが主眼のショーだと訴える。

ベリーダンスの衣装に着替えて体当たりで取材をする壇蜜と、若く美しく且つ小さな子供の母親でもあるダンサーの言動に説得力があって、ベリーダンスへの見方が変わること請け合いのシークエンスになっていたように思う。

タイトルの「生と死の坩堝」にからむエピソードでは、しかし、イスラム教を特別視する姿勢が強すぎて違和感も覚えた。葬儀を取材したものだが、死者の親族の叔父が「死は終わりではなく、始まり」と語ったあとに、壇蜜が「死者に行かないでとすがる気持ちよりも、“逝くなら見送らなくちゃ”という気持ちのほうが強いように思う」と語るシーンは嘘っぽい。

彼らはわれわれ日本人と全く同じように死を悼み、恐れ、愛する者をなくした苦しみの中で、「行かないで!」と懇願しながらそこに立ち尽くしているだけだ。それ以下でもそれ以上でもない。イスラム教徒だけが、あるいはイスラム教の教義だけが、その普遍的な心情とは違う思想や哲学を宿している、と示唆するのは偏見や差別の温床になる可能性さえ秘めた危険な見方だ。


食の起源

NHKスペシャルの「食の起源」は、テーマも情報も眼目も構成もいいのに、TOKIOというあまり必要とは思えないナビゲーターを置いたおかげで、違和感のある仕上がりになった。

TOKIOのファンにはうれしい仕掛けだろうが、この手の番組にはナビゲーターやレポーターは不似合いだ。これは決してTOKIOが悪いという意味ではなく、ドキュメント内容以外の要素はNGという意味である。

ご飯(米)、塩、脂、酒、、美食、と取り上げられた素材を見るだけでも心躍るような構成。だが、せっかくの知的好奇心を満たす要素に、TOKIOのほとんど中身のないコメントや空騒ぎが織り込まれて、全てを台無しにしていると感じた。

タレントを使って視聴率を上げる腹積もりは分かるが、番組の質が落ちるばかりで感心しない。せめて彼らの喋りの中に新たな情報が含まれていればまだ我慢もできるが、文字通りのダベリ一色。むろんそれはディレクターを始めとする制作サイドの不手際だ。出演者は台本に沿って喋っている。

知的なテーマや、内容の濃い「構成もの」の質が悪い時に、タレントを添えてゲタをはかせるのは民放の番組の十八番だ。NHKは民放的「殷賑依存症」の番組作りをするようならあまり存在意義はない。それなら民放になれ、と言われても返す言葉がなくなるのではないか。


大相撲3月場所

史上初の無観客での興行。白鵬が、もはや優勝回数を数えるのさえつまらないほどの回数で、また優勝。場所後に朝乃山が大関昇進を果たした。だが、最近は栃ノ心、高安、豪栄道など、大関から陥落する力士が相次いでいて、申し訳ないが朝乃山にもあまり期待する気が起こらない。大関というのは昔はもっとずっと強かったようなイメージがあるが、それは子供時代の僕の錯覚だったのかもしれない。

観客のいない取り組みは初めのころこそ違和感があった。だが僕は割合と早い段階で慣れた。それは土俵上の申し合いが真剣勝負であるのがよくわかったからだ。若いころに元大関貴乃花の藤島部屋で真剣勝負のぶつかり稽古を見たことが、僕の大相撲への信頼の強い土台になっている。

大相撲に八百長があったのは事実だろうが、僕はそれが世論の猛烈な指弾に遭って矯正されたと信じている。なぜならテレビ画面から伝わってくるのは、僕が学生時代に間近で感じた力士たちの真剣で厳しい息遣いと、緊張と裂ぱくの気合が激突するガチンコ対決の凄みと同じ空気だったからだ。

だからといって大相撲を無観客で見続けたいとは思わない。大相撲の醍醐味はやはり、多くのファンの声援が飛ぶ会場での取り組みにこそある、と強く感じる。

新外来語の威力

僕が知る限り、日本語にはつい最近まで、疫学で「小規模の感染者集団」をあらわすクラスターという言葉はなかった。少なくとも「日常日本語」には見られなかった。それは新型コロナウイルス感染症対策に関する政府の専門家会議が初めに使って、たちまち一般化したものだ。

日本の専門家たちには知見が不足していた。そこで英語を持ち出して概念を表現した。お上のその決定を従順な大衆が受け入れた。地域封鎖や隔離や移動禁止などが合わさった「ロックダウン」、爆発的な感染流行を示す「オーバーシュート」という英語由来の外来語も全く同じである。

僕はそういう日本社会の大勢順応・迎合主義、つまり何事につけ主体的な意見を持たず、「赤信号、皆で渡れば怖くない」とばかりに大勢の後ろに回って、これに付き従う者や風潮や精神に強い違和感を覚える者だ。従って文章を書く際には、それらの言葉を用いないようにしようと抵抗を試みた。

ところが三つの言葉は、“即座に”という形容が過言ではないほどの速さで一般化した。感染者集団や隔離封鎖また感染爆発などという日本語よりも、伝達が早くコンセプトもよく理解される。そこで今では僕も、締まらない話ながら、そうした言葉をひんぱんに使うようになってしまった。

それは悪く言えば日本人の節操の無さ、良く言えば日本語ひいては日本文化の柔軟な精神を端的にあらわしている、というふうにも見えてとても面白いと感じる。




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