
5月7日のエントリー「多様性という名のカオス」を読んだ保守系の読者の方から、「やはり多様性は良くないのですね」という趣旨のメッセージが届いた。
ちょうど友人の渋谷君に送った書簡(メール)に直結する内容なので、それを彼にも送り、同時にここにも転載しておくことにした。
『渋谷君
多様性というのは絶対善です。絶対とはこの場合「完璧」という意味ではなく、欠点もありながら、しかし、あくまでも善であるという意味です。民主主義と同じです。
民主主義はさまざまな問題を内包しながらも、われわれが「今のところ」それに勝る政治体制やシステムや哲学を知らない、という意味で最善の政治体制です。
また民主主義は、より良い民主主義の在り方を求めて人々が試行錯誤を続けることを受容する、という意味でもやはり最善の政治システムです。
言葉を変えれば、理想の在り方を目指して永遠に自己改革をしていく政体が民主主義、とも言えます。
多様性も同じです。飽きることなく「違うことの良さ」を追求し受容することが即ち多様性です。多様性を尊重すればカオスも生まれます。だがそのカオスは多様性を否定しなければならないほどの悪ではありません。
なぜならそれは多様性が内包するところのカオスだからです。再び言葉を変えれば、カオスのない多様性はありません。
多様性の対義概念は幾つかあります。全体主義、絶対論、デスポティズム
etc。日本の画一主義または大勢順応主義などもその典型です。
僕はネトウヨ・ヘイト系排外差別主義と、それを無意識のうちに遂行している人々も、多様性の対極にあると考えています。
なぜなら ネトウヨ・ヘイト系排外差別主義らは、彼らのみが正義で他は全て悪と見做す。つまり彼らは極論者であり過激派です。むろんその意味では左派の極論者も同じ穴のムジナです。
それらは絶対悪ですが、多様性を信奉する立場の者は彼らを排除したりはしない。 ネトウヨ・ヘイト系排外差別主義は悪だが、同時にそれは多様性の一環と考えるのです。
多様性の精神は、むしろそれらの人々のおかげで、多様性や寛容や友愛や友誼や共存や思いやり等がいかに大切なものであるかが分かる、という意味で彼らは必要悪であるとさえ捉えます。
君も読んでくれた記事「多様性という名のカオス」の中で僕は、
「多様性を重視するイタリア社会は平時においては極めて美しく頼もしくさえあるが、人々の心がひとつにならなければならない非常時には、大きな弱点になることもある。今がまさにそうである。 」と書きました。あなたはそれを読んで、僕が多様性を否定しているのではないか、と一瞬思ったということですが、あなたも考え直したようにもちろんそれは誤解です。
多様性は非常時には大きな弱点になること“も”ある。という書き方でも分かる通り、僕はそこでは単純に可能性の話をしただけなのです。
最も重要なことは、多様性が平時においては美しく頼もしいコンセプトである点です。非常時には平時の心構えが大きく作用します。つまり、多様性のある社会では、多様性自体が画一主義に陥り全体主義に走ろうとする力を抑える働きをします。
一方でネトネトウヨ・ヘイト系排外差別主義がはびこる世界では、その力が働きません。それどころか彼らの平時の在り方が一気に加速して、ヘイトと不寛容と差別が横行する社会が出現してしまいます。
日本で最後にそれが起きたのが軍国主義時代であり、その結果が第2次大戦でした。日本はまだ往時の悪夢から完全には覚醒していません。つまり多様性が十分にはないのです。
多様性を獲得しない限り、あるいは多様性の真価を国民の大多数が血肉となるほどにしっかりと理解しない限り、日本は決して覚醒できず真に前進することもできないと考えます。
以上
それではまた』