ロンドンUCLの統計によると、イギリス人の3人に1人は、新型コロナの感染拡大抑止のために行われたロックダウンを楽しんだ、ということだ。
楽しんだと答えたのは、より多くの収入があり、心身の特に心の健康に問題のない30歳から59歳の年齢層の人々だった。
また孤独ではなく、同居人がいたり子供のいる家族があったりすると、外出や移動が厳しく禁止されるロックダウンでも前向きに捉える傾向が強かった。
僕はこの報告を知ってわが意を得たり、という気分になった。僕もどちらかと言えば、世界一過酷とされたイタリアのロックダウンを楽しんだほうだ。少なくともそれほど苦にしなかった。
僕は年齢は59歳以上で子供は独立している。が、同居人の妻がいる。また金持ちではないが生活には困っていない、など統計に当てはまる部分とそうでない部分がある。
統計には示されていないが、都市ではなく田舎に住んでいることもロックダウンに耐えやすい重要な条件になる、と実体験から思う。自宅に庭があればさらに息抜きができる。
また、自宅のように限られた空間内でもできる趣味を持っているかどうかも大切だ。僕は自宅を含む近隣のほぼ全ての家が庭を有する、田園地帯に住んでいる。
また一日中読書をしていても一向に飽きない。幸い同居人の妻も読書好きで、読書の間は会話が途切れるという、彼女にとっての不都合を苦にしない。外出ができないロックダウン中の日々の大半を、僕らは読書をして過ごした。
在宅時の僕の別の趣味は野菜作りと料理である。だがコロナ禍が最悪だった頃は、不安もあって菜園には足が向かず、料理も普段以上に気を入れることはなかった。妻がいつもよりも多くキッチンに立ったことも原因だった。
ブログその他の文章を書くことでも少なからず時間が潰れた。結局、一日が30時間ほどあっても問題ない、と思えるくらいに充実した日々がほとんどだった。
そうはいうものの、それならば再びロックダウンがあっても同じように楽しむか、と問われればあまり自信はない。自宅待機は構わないのだが、外出をして騒ぎ遊ぶ時間がない事態はもうたくさん、という気分だ。
それは個人的な資質の問題である。テレビ屋の僕は、ロケやリサーチや会合でスタッフを始めとする多くの人々に会い、騒ぎつつ仕事を進めるのが好きだ。その一方でひとり孤独に本を読み書き物などをすることもいとわない。動と静が交互に入れ替わるのが僕の生活パターンである。
ことしはロックダウンのおかげで数ヶ月にも渡って静の時間ばかりが過ぎて行った。ところがロックダウンが終わった今も、動の生活パターンはまだ十分には訪れない。そろそろ外出をし、騒ぎつつ遊び、仕事をしたい、というのが正直な思いだ。
だがそれだけが動の時間を待ち望む理由ではない。ロックダウン中はイタリア内外の友人らとビデオ電話を交わし合い、オンライン飲み会なども楽しんだ。しかし、ロックダウンが終わった今は、バーチャルなそれらの邂逅は終わりにしたい。
そして以前のように人々と実際に顔を合わせて歓談し、飲み、食べ、騒いで共に人生を楽しみたいと思う。ところが同時に、僕の中にはそれを億劫がる心も育っている。誰にも会いたくない気分もするのだ。
僕はロックダウンを通して、人に会わずに生きる時間の愉快を知ってしまったのだ。
少しまずい兆候である。他者に会うことを面倒くさがるようでは気持ちは沈むばかりだ。コロナめに心を折られて人生を棒に振ってはたまらない。気をつけよう、と自らを鼓舞しつつ、それでも秋から冬にかけての再びのロックダウンや外出規制にも備えようと気を配ったりもしている。
そうした個人的な感慨とは別に、自宅から一歩も出られないほど過酷で長いロックダウン体験がもたらした、人々の心理の綾や変遷また心の陰りや逆に光明、といったこともひどく気になる。自分を含む人の心のあり方がコロナ禍で一変したのであれば、それは新型コロナの行く末と同じくらいの重大事案だと思うからである。