ギリシャのクレタ島のシンボルはヤギである。ヤギは1万1千年ほど前に中近東域で家畜化され、やがてギリシャにも伝わった。クレタ島には家畜化される前の原始的な生態を保持する、クリクリ種という固有の野生ヤギが生息している。
島のシンボルにもなっているクリクリ種のヤギは絶滅危惧種。厳格に保護されていて、食用にすることはもちろん捕獲もできない。だが島にはクリクリ種とは関係のない家畜化された普通のヤギも多い。
家畜のヤギは、これまた島にたくさんいる羊と共に食肉処理されて大いに食卓にのぼる。レストランでもヤギや羊肉のレシピは豊富だ。冒頭の写真に見るようなヤギのエンブレムが目印の専門店もよく見かける。
新型コロナの影も形もなかった2019年9月、クレタ島に遊んでヤギ・羊肉料理(以下ヤギ料理に統一)を堪能した。滞在中はほぼ毎日、昼か夜に必ずヤギ料理を食べた。
きわめて美味い店が多かったが、観光客を相手にする店ではその逆のレシピも結構あった。そこで滞在中に出会ったヤギ料理について、味の良かった膳と逆のそれをランク順に書いておくことにした。
良い味のレシピは最高ランクから下へ。悪いほうも同じ。最後が最悪の味、という趣向である。
最高の味はヤギ肉ライス。
一日遠出をした海際のレストランで出会った。品の良さとは縁のないこのシンプルな見た目のヤギ肉煮込みには、ミノア文明を生み出したクレタ島の人々の、数え切れないほどの試行と錯誤と、また錯誤と試行を繰り返した歴史のエッセンスが詰まっている、というほどの絶妙な味わいの一品だった。創意工夫の究極の賜物。
タレの主役は品書きにあったレモンのようだ。むろんそれに店特有のハーブやワインやリキュールやetc,etcの「秘密の品々」が加えられているのは間違いない。「(企業)秘密の品々」が、各店の味の違いを生む。ここで使われるのは体重10~15キロのヤギの肉。子ヤギの部類に入るが肉の臭みはもう一人前。その臭みを芳醇な味わいに変えるのがシェフの腕の見せどころだ。ヨーロッパでは珍しい白米との相性も新鮮だった。が、ライスがほとんど余計な気遣いに思えるほどヤギ煮込みそのものの味が秀逸だった。
第2位は週末だけ子羊の丸焼きを提供する店のひと皿。
少し内陸部にあるので観光客が少ないところがミソ、と思ったが期待に違わなかった。ヤギ・羊肉は、煮込みレシピのほうがバラエティー豊富で、味の深みもある。一方、焼きレシピは単調な味が多い。この店の丸焼きは数少ない例外。出色の味わいがあった。
絶妙な味は秘伝のタレを塗って出していると思うが、使うのは塩だけという意外な可能性もある。薪にしろ炭にしろ、焼いてこれだけの「違いのある味」を出すのは至難の業。イタリア・サルデーニャ島に塩だけを使って(薪の)熾火で骨付きの成獣羊肉を焼く店がある。僕はそれを独断と偏見で世界一の「❛成獣❜羊肉膳」、と勝手に決めつけているが、このひと皿は、「焼き」羊肉としてはサルデーニャの店に肉薄するくらいの目覚ましい味がした。
続いての一品は肉の炙り焼きを見世物にしているレストランのひと皿。
伝統のタレで煮込んだ一品。タレの素材は分からないが、店独自の要素を白ワインとからめて煮込んだものだろうと思う。デリケートな柔らかさに煮込まれた肉は、ヤギ・羊肉の味わいある「匂い」ではなく、「芳香」の域にまで達していた。添えられたポテトとの相性も秀逸。店は紹介で訪れた「クレタ島伝統食レストラン」の一つ。この一品の味は一級のさらに上のあたり。 ただし日をあらためて食べた同じレストランの見世物の炙り焼きは、この一品とは別物だった。それは残念ながら後編に組み入れることにした。
最後はホテルの紹介で訪れた少し内陸部の店のひと皿。
客層は地元民と移住英国人が主体だった。肉は焼いたように見えるが、実は煮込み料理。これもまた店一流の深い味が出た一品。タレは地元ワインとオニオンが中心らしい。料理レポートを書いても舌の味は伝わらない。実際に食べてみるしかない。このひと皿は見た目も上品だった。ヤギ・羊肉が嫌いな女性もトライしやすいだろう。食べたら必ずヤギ・羊肉ファンになること請け合いの一品。
ヤギ・羊肉料理の美味い店のメニューには、この店がやっているように「オイル(だいたいオリーブ油)、オニオン、ワィン煮込み」などと説明されている場合が多い。だが素材を3種も明かしているのは珍しい方。レモン煮込みとかワイン煮込みなど、素材の数を少なく示して、店の秘伝のタレの中身をできるだけ明かさないようにしているのが普通である。
ここからは逆に、やや不作味のヤギ・羊肉膳から、まったく不作味の品々までを記しておきたい。
前編に記した肉の炙り焼きを見世物にしている店のひと皿。
店には2種類のヤギ肉レシピがある。伝統手法で煮込んだとされる前述のヤギ肉は極めて美味だったが、こちらの一品は、料理中の肉の美味そうな見た目とは違って少しも味わいがなかった。焼かれた肉とトマトソースが主体のタレの相性が悪いと感じた。店の外に設えられた肉炙り焼き機は風情があって面白かった。料理は見た目もご馳走の一つ、と考えれば前編の味の良いレシピランクのビリに入れても良かったが、やはりためらいが残った。
これは子羊のすね肉の煮込み。
大量のチーズ、トマト、ごった煮野菜、ジャガイモなどの下に隠されていた主役の子羊のすね肉が右の絵。大量具材は肉の味を良くするつもりの創作だろうが、肉そのものの味を高めるのではなく、「夾雑物」の食材で誤魔化そうとしているから不味いばかりではなく品も落ちる。シンプルにすね肉だけを表に出し、付け合わせもポテト一品などに単純化すれば、一級の料理になる筈なのに。。
ひたすら大量・てんこ盛りの食皿を好む北欧人やバルカン半島人など、その地に非常に多かった観光客に媚びると、こんなつまらない料理が出来上がるということなのかもしれない。観光地の悲哀。
その一方で同じ「子羊のすね肉煮込み」は、実は僕はイタリアで何度も「絶品級」の味に出会っている。たとえばこんなふうに骨付きのまま煮込んだ一品。
ヤギ料理の美味いものはほとんど常に店の秘伝のタレで煮込んだシンプルなレシピだ。イタリアの店のひと皿もそうだ。余計な食材をトッピングすると、ほぼ間違いなく肉の貧しさをごまかそうとする作業と同じになって、シェフの意図するところとは逆の印象の味になる。
続いての崖っぷちレシピは「羊肉のパン生地包み焼き」。
見た目は美しいLamb肉煮込み。薄いパン生地で包んでいる。花に見立てたふわりとした外観は上品でオイシそうだったが、味は最後に掲載するLamb肉パイとどっこいどっこいの最悪味。
すっぱい味がしたのは、定番の大量具材にヨーグルトが混じっていたからだと思うが、それはLamb肉とは全く相性がよくない。北欧&バルカン半島系テイストの大味・残念レシピ。これを美味そう、と感じる人は、食べてもやっぱりオイシイとつぶやくのだろうか。僕はひと口食べてフォークを置いた。大げさではなく、オエッとなりそうな味だった。約2000円強を丸々捨てたことになるが、惜しいとは思わなかった。不味い料理がなくては美味しい料理の良さは分からない。勉強と思えば2000円は安い。
最後に最悪味の羊肉パイ。
こちらも見た目はとても美味しそうだが、中身はあらゆる具材がぐちゃぐちゃに入り混じった地獄レシピ。すっかり忘れていたが、食べたその場で書いておく僕の一口メモの備忘録には、この料理は前の一品「羊肉パン生地包み焼き」とともに❛~ンコ飯❜と記されていた。
ヤギ・羊肉の炙り&焼きレシピは何度も書いているように難しい。味が単調になり勝ちだ。だが出色のものは非常に美味い。一方、各店またシェフの秘伝のタレで煮込むヤギ・羊肉膳はバラエティーに富んでいて味も良く深みがある。ワインで言えば「焼きヤギ・羊肉」は白ワイン。「ヤギ・羊肉煮込み」は赤ワイン。前者は選択肢が狭く後者は限りなく広い。味も同じ。。と思う。