【“ピアッツァの声”から転載】


花up手前に後ろぼかし切り取り600


以前、新聞に次の趣旨のコラムを書きました。
 
相手が音を立ててそばを食べるのが嫌、という理由で最近日本の有名人カップルの仲が破たんしたと東京の友人から連絡があった。友人は僕がいつか「音を立ててスパゲティを食べるのは難しい」と話したのを覚えていて、愉快になって電話をしてきたのだ。僕も笑って彼の話を聞いたが、実は少し考えさせられもした。

スパゲティはフォークでくるくると巻き取って食べるのが普通である。巻き取って食べると3歳の子供でも音を立てない。それがスパゲティの食べ方だが、その形が別に法律で定められているわけではない。従って日本人がイタリアのレストランで、そばをすする要領でずるずると盛大に音を立ててスパゲティを食べても逮捕されることはない。

スパゲッティの食べ方にいちいちこだわるなんてつまらない。自由に、食べたいように食べればいい、と僕は思う。ただ一つだけ言っておくと、ずるずると音を立ててスパゲティを食べる者を、イタリア人もまた多くの外国人も心中で眉をひそめて見ている。見下している。しかし分別ある者はそんなことはおくびにも出さない。知らない人間にずけずけとマナー違反を言うのはマナー違反だ。

スパゲティの食べ方にこだわるのは本当につまらない。しかし、そのつまらないことで他人に見下され人間性まで疑われるのはもっとつまらない。ならばここは彼らにならって、音を立てずにスパゲティを食べる形を覚えるのも一計ではないか、とも、思わないでもない。


 
食事マナーに国境はありません。

もちろん、いろいろな取り決めというものはどの国に行っても存在します。たとえばイタリアの食卓ではスパゲティをずるずると音を立てて食べてはいけない。スープも音を立ててすすらない。ナプキンを絶えず使って口元を拭く・・・などなど。それらの取り決めは別に法律に書いてあるわけではありません。が、人と人がまともな付き合いをしていく上で、時には法律よりも大切だと見なされるものです。

なぜ大切かというと、そこには相手に不快感を与えまいとする気配り、つまり他人をおもんばかる心根が絶えず働いているからです。マナーとはまさにこのことにほかなりません。それは日本でも中国でもイタリアでもアフリカでも、要するにどこの国に行っても共通のものです。食事マナーに国境はない、と言ったのはそういう意味です。

スパゲティをずるずると音を立てて食べるな、というこの国での取り決めは、イタリア人がそういうことにお互いに非常に不快感を覚えるからです。別に気取っている訳ではありません。スープもナプキンもその他の食卓での取り決めも皆同じ理由によります。

それらのことには、しかし、日本人はあまり不快感を抱かない。そばやうどんはむしろ音を立てて食べる方がいいとさえ考えますし、みそ汁も音を立ててすすります。その延長でスパゲティもスープも盛大な音を立てて吸い込む。それを見て、日本人は下品だ、マナーがないと言下に否定してしまえばそれまでですが、マナーというものの本質である「他人をおもんばかる気持ち」が日本人に欠落しているとは筆者は思いません。

それにもかかわらずに前述の違いが出てくるのはなぜか。これは少し大げさに言えば、東西の文化の核を成している東洋人と西洋人の大本の世界観の違いに寄っている、と筆者は思います。

西洋人の考えでは、人間は必ず自然を征服する(できる)存在であり、従って自然の上を行く存在である。人間と自然は征服者と被征服者としてとらえられ、あくまでも隔絶した存在なのです。自然の中にはもちろん動物も含まれています。

東洋にはそういう発想はありません。われわれももちろん人間は動物よりも崇高な生き物だと考え、動物と人間を区別し、犬畜生などと時には動物を卑下したりもします。

しかし、そういうごう慢な考えを一つひとつはぎ取っていったぎりぎりの胸の底では、結局、われわれ人間も自然の一部であり、動物と同じ生き物だ、という世界観にとらわれているのが普通です。

天変地異に翻弄され続けた歴史と仏教思想があいまって、それはわれわれの肉となり血となって存在の奥深くにまで染み入り、われわれを規定しています。

さて、ピチャピチャ、ガツガツ、ズルズルとあたりはばからぬ音を立てて物を食うのは動物です。口のまわりが汚れれば、ナプキンなどという七面倒くさい代物には頼らずに舌でペロペロなめ清めたり、前足(拳)でグイとぬぐったりするのもこれまた動物です。

人間と動物は違う、とぎりぎりの胸の奥まで信じ込んでいる西洋人は、人間が動物と同じ物の食い方をするのは沽券(こけん)にかかわると考え、そこからピチャピチャ、ガツガツ、ズルズル、ペロペロ、グイ!は実にもって不快だという共通認識が生まれました。

日本人を含む東洋人はそんなことは知りません。たとえ知ってはいても、そこまで突き詰めていって不快感を抱いたりはしません。なにしろぎりぎりの胸の奥では、オギャーと生まれて食べて生きて、死んでいく動物と人間の間に何ほどの違いがあろうか、と達観しているところがありますから、食事の際の動物的な物音に大きく神経をとがらせたりはしないのです。

そうは言ってみても ― このこともまたコラムに書きましたが ― 周囲の外国人は、ピチャピチャ、ズルズルと音を立てて食事をする人の姿を見て不快に思っています。ならばそれを気づかってあげるのが、最低限のマナーというものかもしれません。

周囲に気を使いつつ食べるのは窮屈だとか、上品ぶるようで照れくさいとか、フォークの運びが面倒くさい、などと言ってはいられません。日本の外に広がる国際社会とは、窮屈で、照れくさくて、面倒くさくて・・要するに疲れるものなのです。スパゲティを静かに食べる所作と同じように。。


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ピアッツァの声