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ここのところスパゲティやパスタに言及する機会が多かった。そこでついでにもう一点その周辺にこだわって記しておくことにした。

僕はこの直近のエントリーで、スパゲッティの食べ方にいちいちこだわるなんてつまらない。自由に、食べたいように食べればいい。食事マナーに国境はない、と書いた。

だが、しかし、右手にフオォーク、左手にスプーン姿でスパゲティを食べるのはアメリカ式無粋だからやめた方がいい、という意見があることは指摘しておきたい。

フォークにからめたスパゲティをさらにスプーンで受けるのは、湯呑みの下にコースターとか紅茶受け皿のソーサーなどを敷いて、それをさらに両手で支えてお茶を飲む、というぐらいに滑稽な所作だ。

田舎者のアメリカ人が、スパゲティにフォークを差し立ててうまく巻き上げる仕草ができず、かと言って日本人がそばを食べるようにすすり上げることもできず、苦しまぎれに発明した食べ方。

それを「上品な身のこなし」と勘違いした世界中の権兵衛が、真似をし主張して広まったものである。本来の簡素で大らかで、それゆえ品もある食べ方とは違う。

上品のつもりで慎重になりすぎると物事は逆に下卑ることがあり、逆に素直に且つシンプルに振舞うのが粋、ということもある。スパゲティにフォークを軽く挿(お)し立てて、巻き上げて口に運ぶ身のこなしが後者の典型だ。

というのは、2年前に亡くなった義母ロゼッタ・Pの受け売りである。義母は北イタリアの資産家の娘として生まれ、同地の貴族家に嫁した。

義母は物腰の全てが閑雅な人だった。義母に言わせると、イタリアで爆発的に人気の出たスイーツ「ティラミス」も俗悪な食べ物だった。

「ティラミス」はイタリア語で「Tira mi su! 」である。直訳すると「私を引き上げて!」。それはつまり、私をハイにして、というふうな蓮っ葉な意味合いにもなる。

義母にとってはこの命名が下品の極みだった。そのため彼女はスイーツを食べることはおろか、その名を口にすることさえ忌み嫌った。

僕は義母のそういう感覚が好きだった。彼女は着る物や持ち物や家の装飾や道具などにも高雅なセンスを持っていた。そんな義母がけなす「ティラミス」は、真にわい雑に見えた。

また、フォークですくったパスタをさらにスプーンで受けて食べる所作は、義母が指摘したアメリカ的かどうかはともかく、大げさに言えば、法外で鈍重でしかも気取っているのが野暮ったい。

その野暮ったさを洗練と履き違えている心情は2重に冴えない、というあまのじゃくな主張は、未だ人間のできていない僕の、大気ならぬ小気な品性による感慨である。

あまのじゃくで軽薄な僕の目には同時に、フォークにスプーンを加えて二刀流でスパゲティに挑む人々の姿は、宮本武蔵をも彷彿とさせて愉快、とも映る。

発見や発明は多くの場合、保守派の目にはうっとうしく見え、新し物好きな人々の目には斬新・愉快に見える。

そして僕は、新し物好きだが保守的な傾向もなくはない、中途半端な男である。



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