沈み行くベニスにどうやら救世主があらわれたようだ。
2020年10月3日、ベニスは高潮に見舞われて街じゅうが水浸しになると予想された。住民は浸水に向けて建物や通りを厳重に防御し長靴や雨具などで重装備をした。海抜の最も低い街の中心のサンマルコ広場を筆頭に、戦々恐々とした時間が流れた。
高潮は135cmを超えると予報が出た。そこで巨大な移動式堤防「モーゼ」が起動されることになった。普段は水中に没している78基の鉄製の防潮ゲートがせり上がって、外海からベニスの潟湖へと流入する潮を堰き止めるのである。
装置はこれまで一度も使用されたことがなかった。試験的な起動は行われていたが、高潮時に実際に始動したことはないのだ。それどころか試験運転の成否はあいまいで、住民を納得させるだけの結果は得られていなかった。
モーゼの構想は1980年代に生まれ、建設は2003年に始められた。しかし経費の高騰や繰り返し起きた汚職問題などで、完成が何度も先延ばしにされてきた。いつまでも成就しない事業にベニスの住民は疲れ、モーゼへの期待も信頼もほぼ全て無くしてしまっていた。
人々は今回の悪天候でもお決まりの辛苦を想定した。ところが高潮が135cmに達してもベニスの街に水は流れ込まなかった。海抜の低いサンマルコ広場周辺も地面は乾いたままだった。つまりモーゼは見事に膨大な潮の流れを堰き止めたのである!
史上初の快挙にベニス中が沸き立ち、イタリア全土が賛嘆した。建設開始から数えて17年の歳月と55億ユーロ(約7000億円)以上の税金を飲み込み、汚職と疑惑と不信にまみれた一大プロジェクトがついに完成したのだ。
ベニスは遠浅の海に浮かぶ100以上の島から成る。海に杭を打ち込み石を積んで島々を結び、水路を道に見立てて街が作られている。街が生まれた5世紀以来、ベニスは悪天候の度に高潮に襲われてきた。海に浮かぶ作為の土地の宿命である。
近代に入ると、地下水の汲み上げなど工業化による地盤の乱用によって、街自体が沈下を始めた。海抜1メートルほどの高さしかないベニスの礎は、1950年から70年にかけての20年間だけで、12センチも沈降した。現在は大幅に改善されたが、脆弱な土壌は変わることはない。
人災がなくなっても残念ながらベニスの不運が変わることはない。というのもベニスの地下のプレートが、毎年数ミリづつ沈下しているからだ。放っておいてもベニスの大地は、数百年後には海抜0メートルになる計算である。
現在ひんぱんに起こるベニスのいわゆる水没問題の本質は、しかし、地盤沈下ではなく高潮の恐怖である。ベニスには秋から春にかけて暴風雨が頻発する。それによって高潮が発生してベニスの潟に洪水のように流れ込む。
元からあるそれらの悪条件に加えて、最近は温暖化による水位の上昇という危難も重なった。そのため自然と人工の害悪が重層的に影響し合って、ベニスの街はさらに大きな高潮浸水に襲われる、という最悪の構図が固定化してしまった。
高潮はアフリカ大陸発祥の強風「シロッコ」によって増幅され膨張して、アドリア海からベニスの浮かぶ潟湖へとなだれ込む。そういう場合にベニスは“沈没”して、壊滅的と形容しても過言ではない甚大な被害を蒙るのである。
ベニスで最も海抜が低いのは、前述したサンマルコ広場の正面に建つサンマルコ寺院。その荘厳華麗な建物は、1200年の歴史の中で高潮による浸水被害を6度受けた。そのうち4度は過去21年の間に起きている。その事実は、ベニスの高潮問題が地球温暖化による海面上昇と無関係ではないことも示唆している。
年々悪化する浸水被害を食い止めようとして、ベニスでは古くから多くの施策が編み出され試行錯誤を繰り返してきた。その中で究極の解決策と見られたのが、ベニスの周囲に可動式の巨大な堤防を設置して海を堰き止めるという壮大な計画、「モーゼ・プロジェクト」なのである。
モーゼという名は旧約聖書からきている。モーゼがヘブライ人を率いてエジプトから脱出した際、海が割れて道ができたという一節を模しているのだ。モーゼは海を割って道を作る軌跡を起こした。「モーゼ・プロジェクト」は海を遮断して壮麗な歴史都市ベニスを救うのである。
2020年10月3日、高潮の予報が出たとき、当局は史上初めてモーゼを起動すると発表した。だが既述したように、ベニスのほとんどの住民はモーゼの実効性を信じることはなく、むしろ「うまくいくわけがない」と内心で嘲笑った。誰もが濡れ鼠になることを覚悟した。
ところが、おどろいたことに、モーゼはうまく高潮を堰き止めた! 着想から数えると何十年もの遅延と汚職と疑義にまみれた歳月を経て、巨大プロジェクトがついに成功を収めたのだ。標高が最低のサンマルコ広場を含む海抜1メートルほどの街の全体が、史上初めて高潮災害時に浸水しなかった。
ベニスはあるいは今後、高潮の被害から完全に開放されようとしているのかもしれない。それはこの先、史上最悪の高潮だった1966年の194cm、また昨年11月に起きて甚大な被害をもたらした187cmの高潮などに迫る大難が襲うときに、一気に明らかになるだろう。