手中の太陽


菅政権の「行き当たりばったり感」なにに起因するのか?

止まらない感染増加と、小池都知事らの高まる批判にこらえきれず、2021年1月7日、菅義偉首相はついに緊急事態宣言を発令した。

思い起こせば昨年の12月14日には、手塩にかけた「GoToトラベル」を全国一斉に停止すると発表し、例によって賛否両論を巻き起こしてもいる。

GoToトラベルの全国一時停止は妥当な施策ではあったと思う。

ただ、「勝負の3週間」の最中の「ガースー発言」、それに「ステーキ会食」、そして「旅行は感染拡大に影響しない」と言い続けてきた菅首相は、「コロナ対策よりも経済」をこれまで強くうったえてきたのは間違いない。

そうした菅首相の方針から考えると、GoToをやるのかやらないのか、緊急事態宣言を出すのか出さないのか、行き当たりばったりで、方針転換の連続であるように見えてしまう。

菅首相の決定がそう受け取られるのは、「コミュニケーション能力」の問題だと思う。

GoToキャンペーン、感染対策、また経済対策についても、菅政権の掲げる政策についてはわりと真っ当だと僕は思っている。異論はあるかもしれないが。

ただ、その政策が意図するところが国民に十分伝わっているとは思えないのだ。それが伝わらなければその政策は当然評価されない。

為政者のコミュニケーション力は非常に重要だが、コロナ禍のような「国家の危急存亡」時にはより一層その重要性が高まるのは言うまでもない。

「コミュニケーションの達人」伊コンテ首相の演説力

菅首相がもたつく一方で、コロナ危機の真っただ中、コミュニケーション力によって、国民を混乱と不安から救った指導者が世界には数多くいる。

例えばドイツのメルケル首相は2020年12月9日、新型コロナ対策としてクリスマスから年末年始に厳しいロックダウンを導入する不都合を国民に侘び、どうか我慢をしてくれ、とほとんど涙ながらに訴え、ドイツ国民を感動させるとともに、国際社会の共感も呼び起こした。

国力がドイツより劣るためにどうしても世界の注目度は低くなりがちだが、実はここイタリアのジュゼッペ・コンテ首相も、卓越したコミュニケーション能力の持ち主だ。

彼は2年前、大学教授から突然宰相に抜擢された。メルケル首相のように根っからの政治家ではないが、コミュニケーション能力にかけては彼女に勝るとも劣らない力量がある。

まさしく「阿鼻叫喚」となったイタリアの「コロナ地獄」は、昨年2月に始まり、3月、4月にピークを迎えた。

コンテ首相はその間、過酷な現実を正面から見据えつつ、「団結と我慢と分別ある行動を」とテレビを通して国民に訴え続けた。

具体的にコンテ首相がどのように国民とのコミュニケーションをはかっていたかを説明しよう。

彼は原則、毎日12時と18時の一日二回、コロナの被害状況を発表した。

また同時に、多くの人々が視聴する公共放送RAIの20時からのニュース枠でも、長い時間を取って国民に直接呼びかけた。

その際、手元に用意した原稿を読んだり、テレプロンプターを読み上げたりせず、カメラ目線で視聴者に真っ直ぐ語りかけるスタイルを貫いた。

その流暢かつ熱っぽい口調は、彼の言葉がライターや官僚による「作り物」ではなく、首相自身の等身大の思いであることを雄弁に物語っていた。

見方によっては「露出しすぎ」と批判されかねないほど多くの時間をコンテ首相はテレビ演説に費やした。

批判をうけたとしても、今は国民の不安に寄り添う必要があるとコンテ首相は判断したのだろう。

当時はコロナにより多数の死者が発生、イタリアは孤立無援の状態が続き、国民は恐怖におびえていたからだ。

「できるだけわかりやすい言葉」かつ「専門的知見を踏まえて」

長いロックダウンの期間中にコンテ首相は印象に残るたくさんの言葉を残した。

例えば「密」を避けるように訴えた際には、ごく普通のイタリア人のごく当たり前の日常に言及して関心を引いた。

曰く、

「若者や年配の友人同士がバールでアペリティーヴォ(食前酒)を飲みながら語らい、日曜日にスタジアムにサッカー観戦に出掛かるのは私たちイタリア人のかけがえのない日常です」

「だが今はその日常を忘れ、私たちの習慣を変えなければならない時です」

一方で首相は、高邁な内容をわかり易い言葉に置き換えて語ることにも長けていた。

中でも最もイタリア国民の心を震わせたのは、一部の感染爆心地だけに適用していたロックダウンを全土に拡大する、と決定した際に述べた言葉だ。

彼はいつものように法令の中身を分かりやすい言葉で詳細に説明した後、こう締めくくった。

「明日、強く抱きしめ合えるように今日は離れていましょう。明日、もっと速く走れるように今日は動かずにいましょう。皆でいっしょに。必ずうまく行きます!」
(“Rimaniamo distanti oggi per abbracciarci con più calore, per correre più veloci domani. Tutti insieme ce la faremo”、※1)

あるいは次のようなフレーズも人々の心を打った。

「私たちの一人ひとりがルールを守れば、この危機から速やかに脱出できるでしょう。
私たちの国は私たち全員の責任を必要としています。

6000万人のイタリア国民が、この非常事態が続く限り大小の犠牲を払って日々果たす責任です。
私たちは全員が同じ共同体の一部です。

私たち一人ひとりは自らの犠牲のみならず他人の犠牲の恩恵も受けています。

これこそがわが国の力なのです」

(se saremo tutti a rispettare queste regole, usciremo più in fretta da questa emergenza. Il Paese ha bisogno della responsabilità di ciascuno di noi, della responsabilità di 60 milioni di italiani che quotidianamente compiono piccoli grandi sacrifici. Per tutta la durata di questa emergenza. Siamo parte di una comunità.Ogni individuo si sta giovando dei propri ma anche degli altrui sacrifici. Questa è la forza del nostro Paese、※2)

コンテ首相の「語り」は時として感情的なものになりかねないため、定時報告の際には救援活動を担う市民保護局(Dipartimento della Protezione Civile )の局長を必ず同席させ、彼の分析と意見を付け加えた。

つまり、専門的知見を踏まえた政策だと見えるように、絶えず工夫していたのである。

コンテ演説の「3つの論拠」

コロナ対策について語る際、コンテ首相は常に「3つの論拠」を踏まえていて、その点では決してぶれることがなかった。(※3)

1つ目は、対コロナ政策の主眼は国民の健康にある、ということ。

それはつまり、「経済が後回しになることも辞さない」ということになる。

イタリアが「コロナ地獄」のただ中にあった当時は的確な主張だったと思う。

2つ目は、あらゆる方策が科学的根拠によって導き出されるべきだ、ということ。

3つ目は、情報の完全な透明性が必要だ、ということである。

真実を国民に伝えることこそ安全保障の要だ、とコンテ首相は考えており、その点について国民に訴え続けた。

長い全土ロックダウンの中、恐怖と不安の禍中にある人々は、コンテ首相の誠心誠意からの言葉に共感し、勇気付けられた。

当時、コンテ首相が導入した過酷なロックダウン政策を、なんと96%もの国民が支持した。

法律や規則や国の縛りが大嫌いで、自由奔放な、あのイタリア国民が、である。

ほかに選択肢がなかったことも事実だが、コンテ首相の類い稀なるコミュニケーション力がもたらした偉大な成果だと言える。

「日本ではコミュニケーション力が育たない」は本当か


欧米の家庭では食事の際に「おしゃべり」を奨励される。

日本の食卓のように、「黙って食べなさい」とは決して言われない。

せいぜい「口の中の食べ物を飲み込んで、それからお話ししなさい」と言われるくらいだ。

学校ではディベート(討論)中心の授業が行われ、試験では口頭試問が待っている。

万事につけ、会話、あるいは対話に重きが置かれるのが欧米社会である。

そうした社会に育つなかで、子供のころからコミュニケーション力を磨いているのが欧米人だ。

昔、「男は黙ってサッポロビール」という三船敏郎演じるコマーシャルが日本にあった。

あのキャッチフレーズは、沈黙を美徳とする日本文化を体現するものだ。

一方、欧米の男性はそうではない。

パーティーや食事会などあらゆる社交の場で、一生懸命しゃべらなければならならない。

「男はだまって、しゃべりまくる」のが欧米では美徳なのである。

ここイタリアには、人を判断するうえで「シンパーティコ」「アンティパーティコ」という言葉がある。

これは直訳すると「面白い人」「面白くない人」という意味である。

面白いか面白くないかの基準は、要するに「おしゃべり」かそうでないかということだ。

イタリアに限らず、欧米においては「おしゃべり」できない人間は、意見を持たない者、つまり「思考しない愚か者」と見なされることがある。

一方、逆に「しゃべりすぎ」で「自己主張が強すぎる困った人」も欧米には少なくない。

ただ、コンテ首相のように、極上のコミュニケーション力を発揮する優秀なリーダーも輩出するのが欧米の土壌だ。

とにかく「誠実」でさえあればもっと心を打てるはず

とはいえ、多弁な欧米人でなくとも、上手なコミュニケーションは可能だ。

コミュニケーション力の真の核は「誠実さ」だからである。

それさえあれば、言葉数が少なくても、コミュニケーションはきっとうまくいく。

政治家の場合には「誠実さ」に加えて、「人となり」がにじみ出た言葉、そして「リーダーにふさわしい勇気」が必要だと思う。

コンテ首相の「言葉」には、それらが常にはっきりと感じられた。

一方、菅首相をはじめ、日本の指導者たちの「言葉」にそうした資質は感じられるだろうか。

専門家だけに語らせたり、官僚の作文を読んだり、誰かに責任を押し付けたり、といった場面ばかり目にしている気がする。

そうではなく、常に首相自身が先頭に立ち、自分の言葉で直接国民を鼓舞することが必要だ。

残念ながら菅首相には、コンテ首相やメルケル首相のようなコミュニケーション力も、国民に直接伝えるんだという「気持ち」すらまったく感じられない。

それは彼の言葉に「誠実さ」が欠けているからではないだろうか。

「コロナ対策もっとやれ派」と「コロナ騒ぎすぎ派」に日本国民が真っ二つにわかれていがみ合っている現状を見るにつけ、管首相のコミュニケーション力の低さが残念でならない。


※1 https://www.youtube.com/watch?v=rLBNdo0Fa1g
※2 https://www.youtube.com/watch?v=rLBNdo0Fa1g
1と同じ演説の一部。このフレーズの最後は「una "comunità di individui" come direbbe Norbert Elias.」で締めくくられます。
~Ogni individuo si sta giovando dei propri ma anche degli altrui sacrifici. Questa è la forza del nostro Paese, una "comunità di individui" come direbbe Norbert Elias.
~私たち一人ひとりは自らの犠牲のみならず他人の犠牲の恩恵も受けています。これこそがわが国の力であり、哲学者ノルベルト・エリアスが規定するところの「諸個人の社会」です。
※3 https://www.youtube.com/watch?v=9RKXPIE5hPU




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