決勝までの歩み
2020サッカー欧州選手権はイタリアが1968年に次ぐ2度目の優勝を果たした。
イタリアの決勝戦進出は今回が4度目だった。
選手権では、ロベルト・マンチーニ監督の手腕によって再生したイタリアが活躍するであろうことを、僕は1次リーグの割と早い段階で予測した。
その予側は、“負けたら終わり“のトーナメント初戦で、イタリアがオーストリアを相手に苦戦をした時に、僕の確信になった。
イタリアは青息吐息で勝ち抜いていく時にいつもとても強くなる。すらすらと相手を倒している場合にはコケることが多いのだ。
1次リーグではイタリアはトントン拍子で勝ち進んだ。3戦3勝で合計得点が7、失点が0というほぼ完璧にも近い戦いばかりだった。そこに少しの不安があった。
事態が順調に進み過ぎると、よく言えばおおらか、悪く言えば軽忽なイタリアチームは、ついつい調子に乗って油断する。
結果、空中分解する。失墜しない程度に苦戦し続けるほうが強いのだ。
イタリアは準決勝でもスペインを相手に苦戦した。のみならず、ボール保持率ほぼ70%対30%と大人と子供の試合のようなありさまだった。
それでもイタリアの伝家の宝刀・Contropiede(コントロピエデ=カウンター攻撃、逆襲)のおかげで120分を1-1で戦い終えて、PK戦を制し決勝進出を果たした。
決戦開始初っぱなの事故
イタリアとイングランドが戦った決勝戦では、試合開始2分足らずでイングランドが1点を先取した。
このとき多くのイングランドファンは勝利を確信し、同じ数だけのイタリアファンは敗北を意識したのではないか。
イタリアファンの僕はその時、20%の不安と80%の喜び、とまでは言わないが、8割方は平穏な気持ちで見ていたことを告白しようと思う。
むろん理由がある。
試合開始早々のそのゴールは、まさにイングランド的なプレースタイルが最善の形であらわれたものだった。
直線的で、速くて、高い身体能力が見事に表現されたアクション。
それこそがイングランドサッカーの最大の特徴であり、強さであり、良さであり、魅力である。
そして同時にまさにそれこそが、イタリア的プレースタイルのチームと相対したときのイングランドサッカー最大の欠点であり、誤謬であり、弱さなのである。
そして僕はこれまで何度も述べてきたように、そのことをもってイングランドサッカーは退屈と感じ、そう主張するのである。
そして退屈なサッカーは必ず敗北するとも。
いつか来た道
イングランドは分かりやすいように極端に単純化して言えば、長く速く高いボールを敵陣に蹴り込むのが得意だ。
それをフォワードが疾駆して追いかけ、捕らえてゴールを狙う。
そこでは選手のボールコントロール能力や技術よりも、駆けっこの速さと敵の守備陣を蹴散らす筋肉と高い身体能力、また戦闘能力が重視される。
決勝戦の初っ端のたった2分で起きた“事件”はまさにそういうものだった。
だからこそ僕は平穏にそれを見ていたのだ。
シュートしたルーク・ショー は、イタリアのディフェンダーとは肉体的に接触しなかった。彼は高く飛んできたボールをほぼボレーに等しいワンバウンドでゴールに蹴り込んだ。
そうしたシュートはほとんどの場合成功することはない。空いているゴールの領域と角度があまりにも狭く、キックするアクションそのものも咄嗟の動きで、ボールの正確な軌跡は望めないからだ。
だがショーのキックは、タイミングを含む全てがうまくかみ合って、ボールは一瞬でゴールに吸い込まれた。
言うまでもなくそこにはイングランドのすばらしい攻撃力とショーの高いテクニックが絡んでいる。
だが、いかにも「イングランドらしい」得点の仕方で、デジャヴ感に溢れていた。
イングランドがそんな形のサッカーをしている限り、イタリアには必ず勝機が訪れることを僕は確信していた。
イタリアはやはり追いつき、延長戦を含む120分を優勢に戦って最後はPK戦で勝利を収めた。
イタリアの真髄
イタリアは、主に地を這うようなボールパスを繰り返してゴールを狙うチームだ。
そういう駆け引きの師範格はスペインである。
今このときのイタリアは、パス回しとボール保持力ではスペインにかなわないかもしれないが、守備力とカウンターアタックでは逆にスペインを寄せ付けない。
ボール保持を攻撃の要に置くスタイルを基本にしているサッカー強国は、イタリアとスペインのほかにフランス、ポルトガル、オランダ、ブラジル、アルゼンチン等々がある。
それらのチームはボールを速く、正確に、敵陣のペナルティエリアまで運ぶことを目的にして進撃する。
一方イングランドは、パスはパスでも敵の頭上を超える長く速い送球をして、それを追いかけあるいは待ち受けて捕らえてシュートを放つ。
繰り返しになるが単純に言えばその戦術が基本にある。それは常に指摘されてきたことで陳腐な説明のように見えるかもしれない。
そしてそのことを裏付けるように、イングランドも地を這うパス回しを懸命に習得し実践もしている。
だが彼らのメンタリティーは、やはり速く高く長い送球を追いかけ回すところにある。
あるいはそれをイメージの基本に置いた戦略にこだわる。
そのために意表を衝く創造的なプレーよりも、よりアスレチックな身体能力抜群の動きが主になる。
速く、強く、高く、アグレッシブに動くことが主流のプレー中には、意表を衝くクリエイティブなパスやフェイントやフォーメーションは生まれにくい。
サッカーはスポーツではなく、高速の知的遊戯
観衆をあっと驚かせる作戦や動きやボールコントロールは、選手がボールを保持しながらパスを交換し合い、敵陣に向けてあるいは敵陣の中で素早く動く途中に生まれる。
ボールを保持し、ドリブルをし、パスを送って受け取る作業を正確に行うには高いテクニックが求められる。
その上で、さらに優れたプレーヤーは誰も思いつかないパスを瞬時に考案し送球する。
そこで相手ディフェンスが崩れてついに得点が生まれる。
というふうな作戦がイングランドには欠けている。
いや、その試みはあることはあるのだが、彼らはやはりイングランド的メンタリティーの「スポーツ優先」のサッカーにこだわっている。
サッカーは言うまでもなくスポーツだ。だがただのスポーツではなく、ゲームや遊びや独創性や知的遊戯が目まぐるしい展開の中に秘められているめざましい戦いなのだ。
イングランドはそのことを認めて、「スポーツ偏重」のサッカーから脱皮しない限り、永遠にイタリアの境地には至れないと思う。
むろんイタリアは、フランス、スペイン、ブラジル、アルゼンチン、などにも置き換えられる。
またそれらの「ラテン国」とは毛並みが違いプレースタイルも違うが、ドイツとも置き換えられるのは論をまたない。