残忍な殺人事件や、銃乱射、テロ等が発生するたびに死刑制度の是非について繰り返し考える。そのたび思いは深くなり、重なり広がってやがて困惑するのがいつもの道筋である。
最近では77人を虐殺したノルウエーの殺人鬼アンネシュ・ブレイビクが、刑期のほぼ半分を終えて10年後に自由の身となる事実に、いわく言い難い違和感を覚えた。
僕の理性は死刑を否定し、その残虐性を憎み、自らの思いが寛容と開明に彩られた世界の趨勢に共鳴しているらしいことに安堵する。
ところが同時に僕の感情は、何かが違うとしきりに訴えている。
死刑は非情で且つ見ていて苦しいものだが、それを否定することで全ての問題が解決されるほど単純ではない。
死刑制度を否定することで、われわれは犠牲者を忘れるという重大な誤謬を犯しているかもしれない。
だが死刑制度を必要悪として認めてしまえば、それは死刑存置論となにも変わらない依怙地な守旧思想になる。
死刑制度の是非は古くて新しい命題だ。守旧部分にも何らかの真実や事態の本質が詰まっている。
そして守旧派の主張とは死刑制度の肯定以外のなにものでもない。
殺人鬼
2011年7月22日、極右思想に染まったキリスト教原理主義者のアンネシュ・ブレイビク はノルウエーの首都オスロで市庁舎を爆破したあと、近くの島で若者に向けて銃を乱射する連続テロ事件を起こした。
爆破事件では8人、銃乱射事件では69人が犠牲になった。後者の犠牲者は、全員がリベラル政党を支持するために集まっていた10代の若者たちだった。
警官制服で偽装したブレイビクは、自らが計画実行した市庁舎の爆破事件の捜査を口実にして、若者らを整列させ銃を乱射し始めた。
逃げ惑う若者を追いかけ狙い撃ちにしながら、ブレイビクは倒れている犠牲者の生死を一人ひとり確認し、息のある者には情け容赦なくとどめをさした。
泣き叫ぶ者、情けを請う者、母の名を呼ぶ者などがいた。ブレイビクは一切かまわず冷酷に、そして正確に若者たちを射殺していった。
今からちょうど10年前、そうやって77人もの人々を爆弾と銃弾で虐殺したノルウェーの怪物ブレイビクは、たった11年後には自由の身となる。
ノルウェーの軽刑罰
残虐な殺人者は、逮捕後は死刑どころか終身刑にさえならず、禁固21年の罰を受けたのみである。
ノルウェーにはほとんどの欧州の国々同様に死刑はなく、いかに酷薄な犯罪者でも禁固21年がもっとも重い刑罰になる。
ノルウェーには他の多くの国に存在する終身刑もない。厳罰主義を採らない国はここイタリアを始め欧州には多いが、ノルウェーはその中でも犯罪者にもっとも寛容な国といっても過言ではないだろう。
世界の潮流は死刑制度廃止であり、僕もかすかなわだかまりを覚えつつもそれには賛同する。
わだかまりとは、死刑は飽くまでも悪ではあるものの、人間社会にとって―必要悪とまでは言わないが―存在する意義のある刑罰ではないか、という疑念が消えないことだ。
少なくともわれわれ人間は、集団で生きていく限り、死刑制度はあるいは必要かもしれない、と常に自問し続けるべきだと思う。
それぞれの言い分
世界の主流である死刑廃止論の根拠を日本にも絡めて改めて列挙しておくと:
1.基本的人権の重視。人命はたとえ犯罪者といえども尊重されるべき。死刑で生命を絶つべきではない。
2.どんなに凶悪な犯罪者でも更生の余地があるから死刑を避けてチャンスを与えるべき。
3.現行の裁判制度では誤判また冤罪をゼロにすることは不可能であり、無実の人を死刑執行した場合は取り返しがつかない。
4.国家が人を殺してはならないとして殺人罪を定めながら、死刑によって人を殺すのは大いなる矛盾。決して正当化できない。
5.死刑執行法と制度自体が残虐な刑罰を禁止する日本国憲法第36条に違反している。
6.死刑廃止は世界の潮流であるから日本もそれに従うべき等々。
これらの論拠の中でもっとも重大なものは、なんといっても「誤判や冤罪による死刑執行があってはならない」という点だろう。このことだけでも死刑廃止は真っ当すぎるほど真っ当に見える。
一方、死刑存置派はもっとも重大な論拠として、被害者とその遺族の無念、悲しみ、怒り等を挙げる。彼らの心情に寄り添えば極刑も仕方がないという立場での死刑肯定論である。
それらのほかに凶悪犯罪抑止のため。仇討ちや私刑(リンチ)を防ぐため。凶悪な犯罪者の再犯を防ぐため。大多数の日本国民(80%)が死刑制度を支持している。人を殺した者は自らの生命をもって罪を償うべき、等々がある。
主張の正邪
死刑肯定論者が主張する凶悪犯罪抑止効果に対しては、廃止論者はその証拠はない、として反発する。実際に抑止効果があるかどうかの統計は見つかっていない。
また80%の日本国民が死刑を支持しているというのは、設問の仕方が誘導的であり実際にはもっと少ないという意見もある。
また誤判や冤罪は他の刑の場合にも発生する。死刑だけを特別視するのはおかしい、という存置派の主張に対しても、死刑廃止論者はこう反論する。
「死刑以外の刑罰は誤判や冤罪が判明した場合には修正がきく。死刑は人の命を奪う。その後で誤判や冤罪が判明しても決して元に戻ることはできない。従って死刑の誤判や冤罪を他の刑罰と同列に論じることは許されない」と。
そうして見てくると、死刑制度が許されない刑罰であることは明らかであるように思う。
無実の者を死刑にしてしまう決してあってはならない間違いが起こる可能性や、殺人を否定しながら死刑を設ける国の矛盾を見るだけでも、死刑廃止が望ましいと言えるのではないか。
生きている加害者の命は死んだ被害者の命より重いのか
生まれながらの犯罪者はこの世に存在しない。何かの理由があって彼らは犯罪を犯す。その理由が貧困や差別や不平等などの社会的な不正義であるなら、その根を絶つための揺るぎのない施策が成されるべきである。
死刑によって犯罪者を抹殺し、それによって社会をより安全にする、というやり方は間違っている。
憎しみに憎しみで対するのは、終わりのない憎しみを作り出すことである。その意味でも死刑廃止はやはり正しい。
それでいながら僕は、やはりどうしても死刑廃止論に一抹の不審を覚える。それは次のような疑念があるからだ。
殺人鬼の命も重い。従って殺してはならないという死刑廃止論は、殺されてしまった被害者の命を永遠に救うことができない。
命を救うことが死刑廃止の第一義であるなら、死刑廃止論はその時点で既に破綻しているとも言える。
また死刑廃止論は、「生きている加害者を殺さない」ことに熱心なあまり、往々にして「死んでしまっている被害者」を看過する傾向がある。
生者の人権は、たとえ悪人でも死者の人権より重い、とでもいうのだろうか。それでは理不尽に死者にされてしまった被害者は浮かばれない。
死刑廃止は凶悪犯罪の抑止にならない
死刑は凶悪犯罪の抑止に資することはないとされる。ところが同時に、死刑廃止も凶悪犯罪の抑止にはつながらない。
死刑のない欧州で、ノルウェー連続テロ事件やイスラム過激派によるテロ事件のような重大犯罪が頻発することが、そのことを如実に示している。
この部分では死刑制度だけを責めることはできない。
なるべくしてなった凶悪犯罪者には死刑は恐怖を与えない。だから彼らは犯罪を犯す。
だがそれ以外の「まともな」人々にとっては、死刑は「犯罪を犯してはならない」というシグナルを発し続ける効果がある。それは特に子供たちの教育に資する。
恐怖感情を利して何かを達成するというのは望ましいことではない。だが犯罪には常に恐怖が付きまとう。
特に凶悪犯罪の場合にはそれは著しい。
従って恐怖はこの場合は、必要悪として認めても良い、というふうにも考えられる。
汚れた命
殺してはならない生命を殺した凶悪犯は、その時点で「人を殺していない生命」とは違う生命になる。分かりやすいように規定すれば、いわば汚れた生命である。
殺人犯の汚れとは被害者からの返り血に他ならない。
従って彼らを死刑によって殺すのは、彼らが無垢な被害者を殺したこととは違う殺人、という捉え方もできる。
汚れた生命は「汚れた生命自身が与えた被害者の苦しみ」を味わうべきという主張は、復讐心の桎梏から逃れてはいないものの、荒唐無稽なばかりとは言えない。
理論上もまた倫理上も死刑は悪である、だが人は理論や倫理のみで生きているのではない。人は感情の生き物でもある。その感情は多くの場合凶悪犯罪者を憎む。
揺るぎない証拠に支えられた凶悪犯罪者なら、死刑を適用してもいいと彼らの感情は訴える。だが、最大最悪の恐怖は―繰り返しになるが―冤罪の可能性である。
法治国家では誤判の可能性は絶対に無くならない。世の中のあらゆる人事や制度にゼロリスクはあり得ない。裁判も例外ではなく必ず冤罪が起きるリスクを伴う。
ほんのわずかでも疑問があれば決して死刑を執行しない、あらゆる手を尽くして死刑に相当するという確証を得た場合のみ死刑にすることを絶対条件に、極刑を存続させてもいいという考えもあり得る。
ノルウエーのブレイビクのような凶悪な確信犯が、彼らの被害者が味わった恐怖や痛みを知らずに生き延びるのはおかしい。理由が何であるにせよ、残虐非道な殺人を犯した者が、被害者の味わった恐怖や痛みや無念を知ることなく、従って真の悔悟に至ることも無いまま、人権や人道の名の下で保護され続けるのは不当だと思う。
彼らは少なくとも死の恐怖と向き合うべきだ。それは殺されない終身刑では決して体験できない。死刑の判決を受けて執行されるまでの時間と、執行の瞬間にのみ味わうことができる苦痛だ。
彼らは死の恐怖と向き合うことで、必ず自らの非情を実感し被害者がかけがえのない存在であることを悟る。悟ることで償いが完成する。
犯罪者以外は皆善人
死の恐怖を強制するのはむろん野蛮で残酷な仕打ちだ。だが彼らを救うことだけにかまけて、被害者の無念と恐怖を救おうとしない制度はもっと野蛮で残酷だとも言える。
つまるところ死刑制度に関しては、その廃止論者のみが100%善ではない。存置論者も犯罪を憎む善人であることに変わりはないのである。
無闇やたらに死刑廃止を叫んだり、逆にその存置を主張したりするのではなく、多くの人々―特に日本人―が感じている「やりきれない思い」を安んじるための方策が模索されるべきだ。
死刑をさっさと廃止しない日本は、この先も世界の非難を浴び続けるだろう。
だが民意が真に死刑存置を望むなら、国民的議論が真剣に、執拗に、そして胸襟を開いてなされるべき時が来ている。
日本は国民議論を盛り立てて論争の限りを尽くし、その上で独自の道を行っても構わないのではないか。
いつの日か「日本が正しい」と世界が認めることがないとは、誰にも言えないのである。