チチョリーナな農婦
イタリア南部の町サプリで、1800年代に書かれた詩に基づいて作られた銅像が女性蔑視だとして物議をかもしている。
詩のタイトルは「サプリの落ち葉拾い」。当時の支配者ブルボン家への抗議を示すために、仕事を放棄した農婦の自己決定権を描いている。
銅像はその詩へのオマージュである。
ところが銅像の農婦はすけすけのドレスを着ていて、特に腰からヒップのラインが裸同然に見える。それに対してフェミニストやジェンダー差別に敏感な人々が怒りの声を挙げた。
銅像は女性の自己決定を無視し、反ブルボン革命について全く何も反映していない。女性はまたもや魂を欠いた性の対象に過ぎない肉体だけを強調され、「サプリの落ち葉拾い」が語る社会的且つ政治的問題とは全く関係がないと糾弾した。
それに対して銅像の作者で彫刻家のエマヌエレ・スティファーノ(Emanuele Stifano )さんは、何事にもただただ堕落のみを見たがる者に芸術を説明しても意味がない、と反論した。
作品も評論も心の目の見方
僕は彫刻家に味方する。銅像が優れた作品であるかどうかは別にして、それは創作アートである。何をどう描いても許されるのが芸術活動だ。
芸術作品に昇華された農婦は、裸体でもシースルーの服を身にまとっていてもなんでも構わない。作者の心の目に見える姿が、そこでの農婦の真性の在り方なのである。
また同時にその作品を鑑賞する者には、作品をいかようにも評価する自由がある。
従ってフェミニストが、銅像は女性への侮辱だと捉えるのも正当なものであり、彼らの主張には耳を傾けなければならない。
批判や反感は鑑賞者の心に映る作品の姿だ。作者が自らの心に見える対象を描くように、鑑賞者も自らの心の鏡に映してそれを審査する。
僕はそのことを確認した上で、銅像の作者の言い分を支持し、一方で批判者の論にも一理があると納得するのである。
芸術と猥褻の狭間
だが、批判者の一部が「銅像を破壊してしまえ」と主張することには断固として異を唱えたい。
極端な主張をするそれらの人々は、例えばボッティチェリのビーナスの誕生や、ミケランジェロのダヴィデ像なども破壊してしまえ、と言い立てるのだろうか。
彼らが言い張るのは、農婦の銅像は女性の尊厳を貶める下卑たコンセプトを具現化している。つまり猥褻だということである。
体の線がくっきりと見えたり、あるいはもっと露骨に裸であることが猥褻ならば、ビーナスの誕生も猥褻である。また猥褻には男女の区別はないのだから、男性で裸体のダヴデ像も猥褻になる。
あるいは彼らが、農婦像は裸体ではなく裸体を想像させる薄い衣を身にまとっているから猥褻、だと言い張るなら、僕はナポリのサンセヴェーロ礼拝堂にある「美徳の恥じらい」像に言及して反論したい。
美徳あるいは恥じらい
女性の美しい体をベールのような薄い衣装をまとわせることで強調しているその彫像は、磔刑死したイエスキリストの遺体を描いた「ヴェールで覆われたイエスキリスト」像を守るかのように礼拝堂の中に置かれている。
「美徳の恥じらい」像は、イタリア宗教芸術の一大傑作である「ヴェールで覆われたイエスキリスト」像にも匹敵するほどの目覚ましい作品である。
「サプリの落ち葉拾い」像の農婦がまとっている薄地の衣は、実はこの「美徳の恥じらい」像からヒントを得たものではないかと僕は思う。
大理石を削って薄い衣を表現するのは驚愕のテクニックだが、銅を自在に操ってシースルーの着物を表現するのも優れた手法だ。
僕は農婦の像を実際には見ていない。だがネットを始めとする各種の情報媒体にあふれているさまざまの角度からの絵のどれを見ても、そこに猥褻の徴(しるし)は見えない。
女性差別や偏見は必ず取り除かれ是正されるべきである。しかし、あらゆる現象をジェンダー問題に結びつけて糾弾するのはどうかと思う。
ましてや自らの見解に見合わないから、つまり気に入らないという理由だけで銅像を破壊しろと叫ぶのは、女性差別や偏見と同次元の奇怪なアクションではないだろうか。
猥褻の定義
猥褻の定義は存在しない。いや定義が多すぎるために猥褻が存在しなくなる。つまり猥褻は人それぞれの感じ方の表出なのである。
猥褻の定義の究極のものは次の通りだ。
「男女が密室で性交している。そのときふと気づくと、壁の小さな隙間から誰かがこちらを覗き見している。男も女も驚愕し強烈な羞恥を覚える。ある作品なりオブジェなり状況などを目の当たりにして、性交中に覗き見されていると知ったときと同じ羞恥心を覚えたならば、それが即ち猥褻である」
僕の古い記憶ではそれはサルトルによる猥褻の定義なのだが、いまネットで調べると出てこない。だが書棚に並んでいるサルトルの全ての著作を開いて、一つひとつ確認する気力はない。
そこでこうして不確かなまま指摘だけしておくことにした。
キリスト教的猥褻
学生時代、僕はその定義こそ猥褻論議に終止符を打つ究極の見解だと信じて小躍りした。
だが、まもなく失望した。つまりその認識は西洋的な見方、要するにキリスト教の思想教義に基づいていて、一種のまやかしだと気づいたのだ。
その理論における覗き見をする者とは、つまり神である。神の目の前で許されるのは生殖を目的とする性交のみだ。
だからほとんどが悦びである性交をキリスト教徒は恥じなければならない。キリスト教徒ではない日本人の僕は、その論議からは疎外される。
その認識にはもうひとつの誤謬がある。性交に熱中している男女は、決してのぞき穴の向こうにある視線には気づかない。性交の美しさと同時に魔性は、そこに没頭し切って一切を忘れることである。
性交中に他人の目線に気づくような男はきっとインポテンツに違いない。女性は不感症だ。セックスに没頭しきっていないから彼らはデバガメの密かな視線に気づいてしまうのである。
若い僕はそうやって、インテリのサルトルはインポテンツで彼のパートナーのボーヴォワールは不感症、と決めつけた。
猥褻は人の心の問題に過ぎない
そのように僕は究極の猥褻の定義も間違っていると知った。
そうはいうものの僕はしかし、いまこの時の僕なりの猥褻の定義は持っている。
僕にとっての猥褻とは、家族の全員及び友人知己の「女性たち」とともに見たり聞いたり体験した時に、羞恥を覚えるであろう物事のこと、である。
僕はサプリの農婦の像やビーナスの誕生やダヴィデ像、そしてむろん美徳の恥じらい像を彼らとともに見ても恥らうことはない。恥らうどころか皆で歓ぶだろう。
その伝でいくと、例えば女性器を鮮明に描いたギュスターヴ・クールベの「世界の起源」を、もしも僕に娘があったとして、その娘とともに全く怯むことなく心穏やかにに眺めることができるか、と問われれば自信がない。
しかしそれは、娘にとっては何の問題もないことかもしれない。問題を抱えているのは飽くまでもこの僕なのだ。
そのように猥褻とは、どこまでも個々人の問題に過ぎないのである。