先頃、ミラノに本拠を置くイタリア随一の新聞Corriera della seraから僕を取材したいという連絡があった。ここしばらく遠い昔にアメリカで賞をもらったドキュメンタリーが蒸し返されることが続いたので、またそのことかと思った。少しうんざりした、というのが本音だった。
ところが古い作品の話ではなく、イタリア・ロンバルディア州のブレシャ県内に住むプロフェッショナルの外国人を紹介するコーナーがあり、そこで僕を紹介したい、と記者は電話口で言った。断る理由もないので取材を受けた。
そうは言うものの、あえて今取材依頼が来たのは、やはり昔の受賞作品が見返されたことがきっかけだということは、記者の関心の在所や質問内容で分かった。だがそれは不快なものではなかった。記者の人柄が僕の気持ちをそう導いた。
発行された新聞を見て少しおどろいた。丸々1ページを使ってかつ何枚もの写真と共に、自分のことが紹介されていた。過去に新聞に取材をされたことはあるが、1ページいっぱいに書かれた経験などない。
アメリカで賞をもらったときでさえ、もっとも大きく書かれたのは日本の地方新聞。写真付きで紙面の4分の一ほどのスペースだった。全国紙にも紹介されたが、本人への直接の取材はあまりなく、僕の名前と受賞の事実を記しただけのベタ記事がほとんどだった。
それなものだから、1ページ全てを使った報道に目をみはった。
イタリアの新聞には顔写真が実に多く載る。これは自我意識の発達した西洋の新聞ということに加えて、人が、それも特に「人の顔」が大好きなイタリアの国民性が大きく影響している。彼らは人の個性に強くひきつけられる。そして個性と、個性が紡ぎだす物語は顔に表出される、と彼らは考えている。
記事の文章は顔に表出された物語をなぞる。だが文章は、顔写真という“絵”あるいは“映像”よりももどかしい表現法である。絵や映像は知識がなくても解像し理解できるが、文章はどう足掻いても文字という最低限の知識がなければ全くなにも理解できない。
直截的な表現を好むイタリアの国民性は、彼らのスペクタクル好きとも関係しているように見える。イタリアでは日常生活の中にあるテレビも映画も劇場もあらゆるショーも、人の動きもそして顔も、何もかもがにぎやかで劇的で楽しい表現にあふれている。時には生真面目な新聞でさえも。
僕を紹介する記事は、若い頃の顔写真をなぞって物語を構成していて、記事文に記されている東京、ロンドン、ニューヨークなどの景色は一切載っていない。僕が生まれ育った南の島の、息をのむように美しいさんご礁の海の景色でさえも。
記者にとっては、つまりイタリアの読者にとってはそこでは、海や街の景色や事物や自然よりも人物が、人物だけが、面白いのである。そして人物の面白さは顔に表れて、顔に凝縮されている。かくて紙面は顔写真のオンパレードになる。
若い自分の写真は面映いものばかりだが、幸い今現在の、成れの果ての黄昏顔もきちんと押さえてくれているので、どうにか見るに耐えられると判定した。
日本で結婚披露宴をしたとき、僕は黒紋付ではなく白を着たいと言い張った。べつに歌舞伎役者などを気取ったわけではなく、黒よりも白のほうが明るくて楽しいと思ったのだ。今となってみるとあれでよかったのだと思う。
ちなみにその披露宴場には、あらゆる色の紋付き袴が賃貸用に備えられていた。天の邪鬼は自分以外にもいるらしい、と思ったのを昨日のことのように覚えている。