2021年、コロナ禍中の2度目のクリスマスも静かに過ぎました。
クリスマスにはイエス・キリストに思いをはせたり、キリスト教とはなにか、などとふいに考えてみたりもします。それはしかし筆者にとっては、困ったときの神頼み的な一過性の思惟ではありません。
筆者は信心深い人間では全くありませんが、宗教、特にキリスト教についてはしばしば考えます。カトリックの影響が極めて強いイタリアにいるせいでしょう。
また筆者はキリスト教徒でもありませんが、この国にいる限りはイタリア人でキリスト教徒でもある妻や妻の家族が行うキリスト教のあらゆる儀式や祭礼に参加しようと考え、またそのように実践してきました。
一方イタリア人の妻は日本に帰るときは、冠婚葬祭に始まる筆者の家族の側のあらゆる行事に素直に参加します。それはわれわれ異教徒夫婦がごく自然に築いてきた、日伊両国での生活パターンです。
クリスマスの朝はできる限り家族に伴って教会のミサに出かけるのもその習いの一環です。しかし昨年はコロナのためにクリスマスのミサは禁止されました。
ことしは感染防止策を徹底したうえでのミサは許されました。だがわれわれ夫婦は大事をとって、人ごみになるミサを避け自宅に留まりました。
教会のミサでは思い出があります。
クリスマスではない何かの折のミサの途中で、中学に上がるか上がらないかの年頃だった息子が、「お父さんは日本人だけど、ここ(教会)にいても大丈夫?」と筆者にささやきました。
大丈夫?とは、クリスチャンではない(日本人)のに、お父さんはここにいては疲れるのではないか。あるいはもっと重く考えれば、クリスチャンではないお父さんはここにいて孤独感を覚えているのではないか、という息子から筆者への気遣いでした。
筆者は成長した息子におどろきました。気遣いをよくする子供ですから気遣いそのものにはおどろきませんでした。だが、そこにあるかもしれない「教会+信者」と、信者ではない者との間の「齟齬の可能性」に気づいた息子におどろいたのです。
筆者は彼に伝えました。
「全然大丈夫だよ。イエス・キリストは日本人、つまりキリスト教徒ではない僕をいつも受け入れ、抱擁してくださっている。だからお父さんはここにいてもOKなんだ」。
それは筆者の嘘偽りのない思いでした。
イエス・キリストは断じて筆者を拒みません。あらゆる人を赦し、受け入れ、愛するのがイエス・キリストだからです。もしもそこでキリスト教徒ではない筆者を拒絶するものがあるとするなら、それは教会であり教会の聖職者であり集まっている信者です。
だが幸い彼らも筆者を拒むことはしません。拒むどころか、むしろ歓迎してくれます。筆者が敵ではないことを知っているからです。筆者は筆者で彼らを尊重し、心から親しみ、友好な関係を保っています。
筆者はキリスト教徒ではありませんが、全員がキリスト教徒である家族と共にイタリアで生きています。従ってこの国に住んでいる限りは、先に触れたように、一年を通して身近にあるキリスト教の儀式や祭礼にはできるだけ参加してきました。
筆者はキリスト教の、イタリア語で言ういわゆる「Simpatizzante(シンパティザンテ)」だと自覚しています。言葉を変えれば筆者は、キリスト教の支持者、同調者、あるいはファンなのです。
もっと正確に言えば、信者を含むキリスト教の構成要素全体のファンです。
同時に筆者は、釈迦と自然とイエス・キリストの「信者」でもあります。その状態を指して筆者は、自らのことをよく「仏教系無神論者」と規定し、そう呼びます。
なぜキリスト教系や神道系ではなく「仏教系」無神論者なのかといいますと、筆者の中に仏教的な思想や習慣や記憶や日々の動静の心因となるものなどが、他の教派のそれよりも深く存在している、と感じるからです。
すると、それって先祖崇拝のことですか? という質問が素早く飛んで来ます。だが筆者は先祖崇拝者ではありません。先祖は無論「尊重」します。それはキリスト教会や聖職者や信者を「尊重」するように先祖も尊重する、という意味です。
あるいは神社仏閣と僧侶と神官、またそこにいる信徒や氏子らの全ての信者を尊重するように先祖を尊重する、という意味です。筆者にとっては先祖は、親しく敬慕する概念ではあるものの、信仰の対象ではありません。
筆者が信仰するのはイエス・キリストであり仏陀であり自然の全体です。
教会や神社仏閣は、それらを独自に解釈し規定して実践する施設です。教会はイエス・キリストを解釈し規定し実践します。また寺は仏陀を解釈し規定し実践します。神社は神々を同様に扱います。
それらの実践施設は人々が作ったものです。ですから人々を尊重する筆者は、それらの施設や仕組みも尊重します。しかしそれらはイエス・キリストや仏陀や自然そのものではありません。筆者が信奉するのは、飽くまでも人々が解釈する対象それ自体なのです。
そういう意味では筆者は、全ての「宗門の信者」に拒絶される可能性があります。
だが前述したようにイエス・キリストも、また釈迦も自然も筆者を拒絶しません。筆者だけではありません。彼らは何ものをも拒絶しません。究極の寛容であり愛であり赦しであるのがイエスであり釈迦であり自然です。だから筆者はそれらに帰依するのです。
言葉を変えれば筆者は、全ての宗教を尊重する「イエス・キリストを信じるキリスト教徒」であり、「釈迦を信奉する仏教徒」です。同時に「自然あるいは八百万神を崇拝する者」、つまり「国家神道ではない本来の神道」の信徒でもあります。
それはさらに言葉を変えれば「無神論者」と言うにも等しい。一神教にしても多神教にしても、自らの信ずるものが絶対の真実であり無謬の存在だ、と思い込めば、それを受容しない者は彼らにとっては全て無神論者でしょう。
筆者はそういう意味での無神論者であり、無神論者とはつまり、「無神論」という宗教の信者だと考えています。そして無神論という宗教の信者とは、別の表現を用いれば、「あらゆる宗教を肯定し受け入れる者」、ということにほかなりません。