イタリア大統領選挙は投票6日目に入った。
コロナ感染防止の観点から、当初一日に2回投票を行う慣わしを1回に改めて始まったが、途中から古例に戻って一日に2回の投票が実施されている。
状況が混沌として終わりが見えないため、一日に2回の慣行に戻して選出作業を加速させようというわけである。
僕は大統領選から片時も目が話せないでいる。
ここまでの状況は下記の記事ほかに書いてきた。
https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52320615.html
https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52320809.html
https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52320880.html
https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52320899.html
イタリア大統領選の不思議と面白さは、あらかじめ募った候補者がなく、議会内各勢力が勝手に候補者を指名して喧々諤々の心理戦を展開するところである。
しかも繰り出される詭計のほとんどは、衆目監視の中で行われるいわば公然の秘密で、パワーゲームに伴う陰湿さがあまり見られない。
引き続き選挙戦をみているうちに、もう一つ面白いことに気づいた。
選挙戦が進行する議会では、立候補を宣言して顕示欲をむきだしに支持を呼びかける候補者がいない代わりに、党派を超えて愛される人物が選出される。
何かに似ていると思ったら、かつて小学校などで行われた「級長選挙」だった。
今は学級委員長選挙などとと称するのだろうが、昔ながらの「級長選挙」という言葉がしっくりくるのでそう呼ぶことにする。
級長選挙では、利害や欲や権謀術数の集大成ではなく、子供たちに幅広く好かれる児童が選出される。
選ばれる子供は自ら級長になるのではなく、クラス全員に推されてその地位に祭り上げられるのだ。
そこでは自己主張の強い子や、抜け目のない策士や、ちゃっかり者などは排除されて、皆に愛され尊敬される子供が、「皆の手で」級長にさせられるのである。
イタリア大統領も同じ。
乱立する政党と対立する議員の大半に愛される者が大統領になる。
選ばれるその人物は、あわてず騒がず、自己主張も奸智に長けた言動も断じてすることなく、人々の好意と友愛と尊敬が集中するのを、静かに待っている。
イタリア大統領が政治的に公正で人格的に清潔な人物、あるいはそういう印象の強い者に落ち着くことが多いのは、ある意味当たり前の成り行きと言って良い。