安倍元首相が銃撃され亡くなったのは悲しいことだ。あってはならない惨劇であったのは言うまでもない。
衷心より哀悼の意を表したい。
犯人の動機が何であれ、彼と背後関連者(存在するとして)は徹底して糾弾されなければならない。
同時にこの事件の場合には「生前が何であれ死ねば全て許される。死者に鞭打つな」という日本独特の美しい慣わしを適応してはならない。
政治家などの公人の場合には、必要ならば死者も大いに貶めるべきだ。
ましてや権力の座にあった者には、職を辞してもたとえ死しても、監視の目を向け続けるのが民主主義国家の国民のあるべき姿だ。
なぜなら監視をすることが後世の指針になるからだ。
公の存在である政治家は、公の批判、つまり歴史の審判を受ける。
受けなければならない。
「死んだらみな仏」という考え方は、恨みや怒りや憎しみを水に流すという美点もあるが、権力者や為政者の責任をうやむやにして歴史を誤る、という危険が付きまとう。決してやってはならない。
他者を赦すなら死して後ではなく、生存中に赦してやるべきだ。「生きている人間を貶めない」ことこそ、真の善意であり寛容であり慈悲だ。
だがそれは、普通の人生を送る普通の善男善女が犯す、「間違い」に対して施されるべき理想の行為。
安倍元首相は普通の男ではない。日本最強の権力者だった人物だ。日本の将来のために良い点も悪い点もあげつらって評価しなければならない。
亡くなったばかりの安倍元首相に対しては、ほとんどのメディアが賞賛一辺倒の報道をしている。彼の政治手法や哲学への批判や検証はなされていない。
それは危険な兆候だ。
間違いや悪い点に対しては口をつぐむ、という態度はもってのほかである。
僕は安倍元首相の政治手法や哲学や政策には基本的に反対の立場を貫いてきた。彼の歴史修正主義的な言動に強い違和感を抱き続けた。
安倍元首相は森友・加計・桜を見る会などに始まる疑惑と嘘と不実にも塗れていた。それらが解明されなくなるのは残念だ。
そうはいうものの僕は、決して彼への反対一辺倒ではなく、元首相のプラグマティストしての柔軟で現実的な政治手法を認めてもきた。
功罪相半ばする、とまでは言えないが、ある程度は彼の政策に賛同するところもあったのである。
そうした僕の思いや意見を記した記事は多い。そのうち幾つかのURLを貼付して、僕の元首相へのお悔やみの印としたい。
1.https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52291110.html
2.http://blog.livedoor.jp/terebiyainmilano/archives/52128918.html