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安倍元首相を国葬にするのは、日本の民主主義の底の浅さと、過去に大きく国を誤った保守強硬派の呪縛が依然として強いことの証しのようで違和感を拭えない。

犯行が容疑者の個人的な恨みによるものなら、民主主義云々を言い立てて元首相を国葬にするのは欺瞞だ。権力の乱用と批判されても仕方がないのではないか。

国葬にする理由を問われて岸田首相は、①長期間に渡る政権運営、②多くの分野で重要な実績をあげたこと、③国内外、特に外国から多くの哀悼のメッセージが寄せられていることなどを挙げた。

その上で岸田首相は「わが国は暴力に屈せず、断固として民主主義を守り抜く」と、あたかも銃撃事件が政治的・思想的動機に基づくもの、と決めつけるような主張を繰り返した。

個人的怨恨が犯行の動機らしいという重要な情報を敢えて無視して、論点をずらそうとでもするような相変わらずの奇妙な言動だ。

安倍元首相の理不尽な死に対しては衷心から哀悼の意を表しつつ、僕は礼賛一辺倒の議論や報道に対しては強い疑問を持つ。

同時に彼の国葬についても反対する。何よりも法的根拠が希薄だ。また功罪ある元首相の実績を、あたかも功のみであるかのように言い募る誤魔化しにはとてもついていけない。

元首相と旧統一教会の癒着についても徹底的に解明されるべきだ。それ以前の曖昧な状況下で国葬を決定するのは、「民主主義を守る」どころか、逆に民主主義に反する所業だ。

犯行の動機や影響についての考察、元首相の実績への賛否や是非、また国葬に対する賛否両論などが多数出回っている。国葬賛成論は岸田首相のそれにほぼ集約されるように思う。

僕自身は安倍元首相の実績には多く疑問を持ち、国葬に対しては明確に反対の立場だが、外国に住んで日本を客観的に眺める立場からもう少し踏み込んだ意見を述べておきたい。

まず岸田首相が明言した国葬の理由について:

長期間に渡る政権運営が国葬に値するというのは、法的にも歴史的にも倫理的にも破綻した主張だ。

長く政権を担うことが国葬にあたるなら、ここイタリアのベルルスコーニ元首相も合計で10年近くに渡り首相を務めた。実績も少なくない。だが醜聞にまみれた彼が国葬に値するといえば、悪魔や鬼がしてやったりと笑うだろう。

またドイツのメルケル前首相は、2005年から2021年まで実に16年間も政権を維持した。だが民主主義と法の支配が堅固なドイツでは、彼女が「無条件に」国葬になることはあり得ない。国葬の条件は法律に明記されている。

一方で安倍元首相を国葬にするのは、国葬令が1947年に失効した現在は違法だ。岸田首相の言う「内閣府設置法」 の適用はこじつけにしか見えない。

安倍元首相は多くの分野で重要な実績をあげたことは事実だが、同時に多方面で民主主義に逆行したり欺瞞にまみれた政策、言動にも終始した。森友・加計・桜を見る会などがそうだ。

また民意に反して辺野古に新基地建設を強行するなどの横暴も見逃せない。

加えて自らの死と引き換えに、山上容疑者によって旧統一教会との癒着疑惑まで暴かれてしまった。

多くの闇と罪に目をつぶって拙速に国葬を決め、国民を分断するほどの強い反対意見があるにもかかわらずにそれを無視しようとするのは、あるいは何か別の意図でもあるのだろうか。

安倍元首相の悲劇的な最期を受けて、内外から多くの哀悼の意が示されるのは当たり前すぎて国葬の理由になどなり得ない。

9年近くも日本の首相を務めた安倍元総理は、G7ほかの国際会議にも必ず出席し外遊も多くした。彼の政治信条がどうであれ、世界中の指導者や著名人が弔意を示すのは外交儀礼上も当然のことだ。

再びここイタリアのベルルスコーニ元首相にからめて言う。

もしも今ベルルスコーニ元首相が死去するなら、彼に敵対した人々も含めて多くの哀悼のメッセージが寄せられるだろう。暗殺などの横死である場合には、さらに多くの同情と弔意が殺到するのは必至だ。

人の死とはそういうものだ。ましてや安倍元首相は長く日本国のトップに君臨した人物だ。彼が「実際には何者であるか」には関係なく、哀悼の意が多く集まるのが当たり前だ。

国外から寄せられる多くの弔意の裏にある本音を見逃してはならない。

それはこうだ:

「日本が近隣国を始めとする世界に振るった暴力を否定したがる、歴史修正主義者としての安倍元首相には怒りを覚えるが、暗殺者によって不慮の死を遂げた彼に強い憐憫の情を表明します」というものだ。

良識と良心を持つ「米国を含む」世界の知性の多くは、安倍元首相の姑息な歴史修正主義を完全に見抜いていて、絶えず監視の目を向け警戒心を抱き続けてきている。

それが見えないのは、“外交辞令“とさえ呼べる類いの国際儀礼の多くを、本音と取り違える初心な人々や、安倍元首相を救世主と崇めるネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者くらいのものではないか。

安倍元首相は、日本の過去の過ちを認めず、軍国主義日本の被害者の国々や人民に謝ることを拒否した。だが彼の致命的な誤謬は、「謝らないこと」ではない。

日本の過去の過ちを過ちとして認識できないこと自体が問題なのだ。過ちと認識できないのは無明と優越意識のなせるわざだ。そこに確信犯的な思い込みが加わると真実はいよいよ遠のいて見えなくなる。

理由が何であれ日本の過去の過ちを過ちとして認識できないから、安倍元首相は平然と歴史を修正し、あったことをなかったことにするような言動を続けたのだ。

再び言う。

安倍元首相が銃撃され亡くなったのは、悲しいあってはならない惨劇だった。山上容疑者の行為と背後関係者は徹底して糾弾されるべきだ。

同時にこの事件に対しては「生前がどうであれ死ねばみな仏。死者に鞭打つな」という日本に顕著な美徳(世界にも同様の考え方は多い)を適用してはならない。

なぜなら政治家などの公人は、必要ならば死者も大いに鞭打つべきだ。

ましてや権力の座にあった者には、職を辞してもたとえ死しても、監視の目を向け続けるのが民主主義国家の国民のあるべき姿だ。なぜなら監視をすることが後世の指針になる。

公の存在である政治家は、公の批判、つまり歴史の審判を受ける。受けなければならない。

「死んだらみな仏」という考え方は、恨みや怒りや憎しみを水に流すという美点もあるが、権力者や為政者の責任をうやむやにして歴史を誤る、という危険が付きまとう。決してやってはならない。

他者を赦すなら死して後ではなく、生存中に赦してやるべきだ。「生きている人間を貶めない」ことこそ、真の善意であり寛容であり慈悲だ。だがそれは、普通の人生を送る普通の善男善女が犯す「間違い」に対して施されるべき、理想の行為だ。

安倍元首相は普通の男ではない。日本最強の権力者だった人物だ。日本の将来のために良い点も悪い点も全て洗い出して評価しなければならない。

それをしないまま、あるいは賛美一辺倒の偏った評価だけに基づいて国葬が執り行われるのは、民主主義を守るのではなく民主主義を踏みにじる許し難い行為、と重ねて主張したい。



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