兵士の本質を語るとムキになって反論する人々がいる。
兵士を美化したり感傷的に捉えたりするのは、日本人に特有の、少し危険な精神作用である。
多くの場合それは、日本が先の大戦を「自らで」徹底的に総括しなかったことの悪影響だ。
兵士を賛美し正当化する人々はネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者である可能性が高い。
そうでないない場合は、先の大戦で兵士として死んだ父や祖父がいる人とか、特攻隊員など国のために壮烈な死を遂げた若者を敬愛する人などが主体だ。
つまり言葉を替えれば、兵士の悲壮な側面に気を取られることが多い人々である。それは往々にして被害者意識につながる。
兵士も兵士を思う自分も弱者であり犠牲者である。だから批判されるいわれはない。そこで彼らはこう主張する:
兵士は命令で泣く泣く出征していった。彼らは普通の優しい父や兄だった。ウクライナで無辜な市民を殺すロシア兵も国に強制されてそうしている可哀そうな若者だ、云々。
そこには兵士に殺される被害者への思いが完全に欠落している。旧日本軍の兵士を称揚する者が危なっかしいのはそれが理由だ。
兵士の実態を見ずに彼の善良だけに固執する、感傷に満ちた歌が例えば島倉千代子が歌う名曲「東京だョおっ母さん」だ。
「東京だョおっ母さん」では亡くなった兵士の兄は
♫優しかった兄さんが 桜の下でさぞかし待つだろうおっ母さん あれが あれが九段坂 逢ったら泣くでしょ 兄さんも♫
と切なく讃えられる。
だが優しかった兄さんは、戦場では殺人鬼であり征服地の人々を苦しめる大凶だったのだ。彼らは戦場で壊れて悪魔になった。
歌にはその暗い真実がきれいさっぱり抜け落ちている。
戦死した優しい兄さんは間違いなく優しい。同時に彼は凶暴な兵士でもあったのだ。
自分の家族や友人である兵士は、自分の家族や友人であるが故に、慈悲や優しさや豊かな人間性を持つ兵士だと誤解される。
兵士ではない時の、人間としての彼らはもちろんそうだっただろう。だが一旦兵士となって戦場を駆けるときは、彼らは非情な殺人者になる。
敵の兵士も味方の兵士も、自分の家族の一員である兵士も、自分の友人の兵士も、文字通り兵士全員が殺人者なのだ。
兵士は戦争で人を殺すために存在する。彼らが殺すのは、殺さなければ殺されるからだ。
だからと言って、人を殺す兵士の悪のレゾンデートルが消えてなくなるわけではない。
兵士は人殺しである。このことは何をおいても頑々として認識されなければならない。
そのことが認識されたあとに、「殺戮を生業にする兵士を殺戮に向かわせるのが国家権力」という真実中の真実が立ち現れる。
真の悪は、言うまでもなく戦争を始める国家権力である。
その国家権力の内訳は、先の大戦までは天皇であり、軍部でありそれを支える全ての国家機関だった。つまり兵士の悪の根源は天皇とその周辺に巣食う権力機構である。
敗戦によってそれらの事実が白日の下にさらされ、勝者の連合国側は彼らを処罰した。だが天皇は処罰されず多くの戦犯も難を逃れた。
そして最も重大な瑕疵は、日本国家とその主権者である国民が、大戦をとことんまで総括するのを怠ったことだ。
それが理由の一つになって、たとえば銃撃されて亡くなった安倍元首相のような歴史修正主義者が跋扈する社会が誕生した。
歴史修正主義者は兵士を礼賛する。兵士をひたすら被害者と見る感傷的な国民も彼らを称える。そこには兵士によって殺戮され蹂躙された被害者がいない。
過去の大戦を徹底総括しないことの大きなツケが、その危険極まりない国民意識である。