ちむどんどん

NHKの朝のテレビ小説「ちむどんどん」をほぼ毎回見ている。

ロンドン拠点にするNHK系列のペイTV早朝、朝8時、昼、さらに夜と一日に4回放送する。そのうちの早朝か8時の放送を見ている。

時間が合わない場合は録画をしておいて鑑賞する。

ドラマとしては突っ込みどころ満載の欠陥作品と言って良い。え?と思わず目や耳を疑うシーンや展開が多い。

だが長丁場のテレビ小説だ。細部の瑕疵は、全体として最終的にうまくまとまれば通常はたいして気にならなくなる。目くじらをたてることはない。

しかし「ちむどんどん」はどうも具合が悪い。ひっかかる小疵が多すぎるばかりではなく、致命的と呼んでもいい欠点も幾つかある。

なんといっても主人公、暢子の兄であるニーニーの人物像がひどい。バカのように描かれているが、彼は実はバカではない。

ドラマで描かれるバカは、演出が確かならバカなりに視聴者はその存在を信じることができる。ところがそこで描かれているニーニーは、存在自体が信じられない。

あり得ない人物像だから彼はバカでさえないのである。

ニーニーは「男はつらいよ」の寅さんのパロディーでもある。しかし完全に空回りしていて目を覆いたくなるほどの不出来なキャラクターになっている。

そこに脚本の杜撰と演出の未熟が負の相乗効果となって、見ている者が恥ずかしくなるようなつらいシーンが、これでもかとばかりに繰り返される。

その展開を許しているプロデューサーの罪も重い。

パロディーはコメディーと同様に作る側は決して笑ってはならない。作る側が面白がる作品は必ずコケる。

「ちむどんどん」の演出は脚本の軽薄を踏襲して、「どうだニーニーは寅さんみたいな愉快な男だろう、皆笑え」と独り合点で面白がり盛り上がっている。

ニーニーは演出家と等身大の人間ではなく、劇中のつまり架空のアホーな存在に過ぎない。そのように描くから面白い。だから皆笑え、というわけだ。

だが劇中でバカを描くなら、演出家自らもバカになって真剣にバカを描かなければ視聴者は決して納得しない。

「ちむどんどん」では演出家はニーニーより賢い存在で、バカなニーニーを視聴者とともに笑い飛ばそうと企てている。

換言すると演出家はニーニーを愛していないし尊敬もしていない。人間的に自分より下のバカな存在だと見なして、そのバカを上から目線で笑おうとしているだけだ。

だから人間としてのニーニーに魂が入らず、作りものの嘘っぱちなキャラクターであり続けている。

怖いことに演出家の姑息な意図はダイレクトに視聴者に伝わる。

視聴者は笑わないし、笑えない。しらける。ニーニーの実存が信じられない。当たり前だ。演出家自身が信じていないキャラクターを視聴者が信じられるわけがない。

演出家は作品の第一番目の視聴者だ。最初の視聴者が身につまされないドラマは、続く視聴者にも受けないのである。

おそらく今後はニーニーは、辛い過去を持つ清恵と結ばれてハッピーエンドとなる展開だろうが、あり得ない登場人物のハッピーエンドもまた空しいものになるだろう。

「ちむどんどん」の最大の瑕疵は、しかし、実存し得ないニーニーの存在の疎ましさではない。

沖縄から上京した主人公の暢子が、いつまで経っても沖縄訛りの言葉を話し続けるという設定が最大の錯誤だ。

沖縄本島のド田舎、北部の山原で生まれ育った暢子は、料理人になるために東京・銀座のイタリアレストランに就職する。

ところが暢子は、厨房のみならずフロアにも出て客と接触し言葉使いも厳しくチェックされる環境にいながら、いつまで経っても重い沖縄訛りの言葉を話し続ける。

沖縄の本土復帰50周年を記念するドラマであり、沖縄を殊更に強調する筋立てだから、敢えて主人公に沖縄訛りの言葉をしゃべらせているのだろう。

だがそれはあり得ない現実だ。日本社会は、東京に出た地方出身者が堂々と田舎言葉で押し通せるほど差別のないユートピアではない。

例えばここイタリアなら、各地方が互いの独自性を誇り尊重し合うことが当たり前だから、人々は生まれ育った故郷の訛りや方言をいつでもどこでも堂々と披露しあう。

お国言葉を隠して、標準イタリア語の発祥地とされるフィレンツェ地方の訛りや、都会のローマあるいはミラノなどのイントネーションに替えようなどとは、誰も夢にも思わない。

多様性と個性と独自性を何よりも重視するのがイタリア社会だ。一方日本は、その対極にある画一主義社会でありムラ共同体だ。異端の田舎言葉は排斥される。

地方出身者の誰もが堂々とお国言葉を話せるならば、日本社会はもっと風通しの良い気楽な場所になっているだろう。

だが実際には地方出身の人間は、田舎言葉を恥じ、それに劣等感を感じつつ生きることを余儀なくされる。なるべく早く田舎訛りを直し、或いは秘匿して共通語で話すことを強いられる。

共通語で話せ、と実際に誰かに言われなくても、田舎者はそうするように無言の、そして強力な同調圧力をかけられる。画一主義が全てなのだ

日本には全国に楽しい、美しい、愛すべき田舎言葉があふれている。だが一旦東京に出ると、田舎言葉は貶められ、バカにされ、否定される。

多様性と個性と‘違い’が尊重されるどころか、軽侮されのが当たり前の全体主義社会が日本だ。言わずと知れた日本国最大最悪の泣き所のひとつだ。

そんな重大な日本社会の問題を無視し、あるいは独りよがりに暢子は問題を超越しているとでも決めつけているのか、彼女いつまでも地方言葉を話し続けるのは、手ひどい現実の歪曲だ。

その設定は、ニーニーの杜撰な人物造形法のさらに上を行くほどの巨大な過失とさえ僕の目には映る。





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