The-Vatican-City-State-an-independent-country650

‘’ファシスト気質‘’

イタリアでは来たる9月25日に総選挙が行われて、極右政党が主導する政権が樹立される見通しだ。主導するのはファシスト等の流れを汲む「イタリアの同胞」。

ファシストが政権党、と聞けば以前なら思わずぎょっとするところだが、ファシスト気質のトランプ前大統領の登場以降は、どうということもなくなった。

世界にはファシスト気質の政治家や政権が溢れている。トランプ前大統領に心酔する英ジョンソン首相とブレグジッド派勢力、フランスのルペン国民連合党首、ボルソナロ大統領ほかの南米またアジア・アフリカの指導者、などなど。日本の安倍元首相と周辺勢力もそこに親和的だ。

民主主義を無視して、安倍元首相の国葬を強行しようとする岸田政権は、安倍政権の上を行くファシスト気質の統治体制、と言っても構わないのではないか。

それらの政治家や政治勢力は、強権的という意味でプーチン大統領や習近平国家主席、また金正恩総書記などにも似ている。彼らのうちの多くは実際にお互いに友誼を結んでいる関係でもある。

‘’慣れの功罪‘’

伊総選挙後の首相就任がほぼ確実視されている、イタリアの同胞党首のジョルジャ・メローニ氏は、いま述べた世界のファシスト気質の政治家の中でも最もファシストに近い指導者である。

だが彼女は、ファシストどころか極右と呼ばれることも嫌い、自らが率いるイタリアの同胞をかつてのファシスト党のイメージから遠ざける努力を続けてきた。

それは半ば成功し半ば失敗していると言える。イタリアの同胞を支持率トップに引き上げたことが成功であり、彼女が未だに「ファシストと完全に決別する」と高らかに宣言できないところが失敗である。

それでも彼女が政権を握ることは、かつてそうであったほどの脅威にはならない。なぜならイタリアを含む世界は、既述のファシス的性向の指導者や政権に慣れて来ているからだ。

慣れは油断につながり、権力の暴走を許す可能性がある。同時に、対抗政治勢力と国民が、それら危険な権力への対処法を学ぶ原動力にもなる。

2022年現在、世界は剣呑な権力の抑制に成功している。それと言うのもトランプ政権は否定され、ブレグジッドを主導したジョンソン首相も退陣した。またフランスのルペン氏は大統領選で敗れた。

さらにブラジルのボルソナロ大統領の勢いは削がれ、日本では安倍元首相が銃弾に斃れて政治の表舞台から去った。

むろんそれは偶然の出来事だ。だが歴史の大きなうねりは得てして偶然に見える必然も生み出す。その歴史はさらに、岸田政権という強権&忖度集団まで作り出してしまった。

‘’極左と極右は同じ穴のムジナ‘’

一方イタリアでは2018年、極左と極右と定義されることも多い「五つ星運動」と「同盟」が政権を樹立する事態になった。それは欧州を震撼させたが、イタリア共和国は幸いに2党がかねてから主張する脱EUには向かわなかった。

ポピュリスト政権は、EUの意向に反してバラマキ政策を敢行した。と同時にEUとの共存の道も模索し続けた。やがて同盟が離反すると、 五つ星運動はEUと親和的な民主党と連立を組み直して、政権はより穏健になった。

そして今回、正真正銘の極右政党イタリアの同胞が議会第1党になる可能性が出てきた。

それが他の主要民主主義国で起これば一大事だが―そしてむろんイタリアでも強く懸念されてはいるが―この国の核を成している多様性が担保して、極右は強硬保守へと骨抜きにされると思う。

イタリアでは政治制度として、対抗権力のバランスが最優先され憲法で保障されている。そのため権力が一箇所に集中しない、あるいはしにくい。

その制度は、かつてファシスト党とムッソリーニに権力が集中した苦しい体験から導き出されたものである。

同時にそれは次々に政治混乱をもたらす仕組みでもある。が、たとえ極左や極右が政権を担っても、彼らの思惑通りには事が運ばれない、という効果も生む。

過激勢力が一党で過半数を握れば危険だが、イタリアではそれはほとんど起こりえない。再び政治制度が単独政党の突出を抑える力を持つからだ。

‘’多様性が極論を抑える‘’

イタリアが過激論者に乗っ取られにくいのは、いま触れた政治制度そのものの効用のほかに、イタリア社会がかつての都市国家メンタリティーを強く残しながら存在しているのが理由だ。

都市国家メンタリティーとは、換言すれば多様性の尊重ということである。

イタリア共和国は精神的にもまた実態も、かつての自由都市国家の集合体である。

そして各都市国家の末裔たちは、それぞれの存在を尊重し盛り立てつつ、常にライバルとして覇を競う存在でもある。そこに強い多様性が生まれる。

多様性にはカオスに似た殷賑が付き物だ。

都市国家メンタリティーが担保する多様性重視のイタリア社会では、誰もが自説を曲げずに独自の道を行こうと頑張る。その結果、カラフルで雑多な行動様式と、あっとおどろくような 独創的なアイデアがそこらじゅうにあふれる。

多様性を重視するイタリア社会は、平時においては極めて美しく頼もしくさえある。だがそれには、前述のカオスにも似た殷賑が付いて回る。

多様性を否定したい人々はそこを殊更に重視する。そして多様性に伴う殷賑あるいはカオスを、アナーキズムと曲解して多様性を指弾したりもする。

言うまでもなく彼らは間違っている。彼らは千差万別、多彩、人それぞれ、 百人百様、十人十色、 多種多様、、蓼食う虫も好き好き 、など、など、人の寛容と友誼と共存意識の源となる美しいコンセプトを理解しないのだ。

多様性というのはあくまでも絶対善だ。絶対とはこの場合「完璧」という意味ではなく、欠点もありながら、しかし、あくまでも善であるという意味だ。例えば民主主義と同じである。

‘’多様性と民主主義‘’

民主主義はさまざまな問題を内包しながらも、われわれが「今のところ」それに勝る政治体系や構造や仕組みや哲学を知らない、という意味で最善の政治体制だ。

また民主主義は、より良い民主主義の在り方を求めて人々が試行錯誤を続けることを受容する、という意味でもやはり最善の政治システムである。

言葉を変えれば、理想の在り方を目指して永遠に自己改革をしていく政体こそが民主主義、とも言える。

多様性も同じだ。飽きることなく「違うことの良さ」を追求し歓迎し認容することが、即ち多様性である。

多様性を尊重すればカオスにも似た殷賑が生まれる。だがそれは、多様性を否定しなければならないほどの悪ではない。

なぜならそれは、多様性が内包するところの疑似カオス、つまり前記の「個性が思い思いに息づく殷賑」に過ぎないからだ。再び言葉を変えて言えば、カオス風の賑わいがない多様性はない。

多様性の対義概念は幾つもある。全体主義、絶対論、専制主義、統制経済、侵略主義、軍国主義、民族主義、選民主義、チキンゲーム、干渉主義、デスポティズムetc。日本社会に特有の画一主義または大勢順応主義などもその典型だ。

僕はネトウヨ・ヘイト系排外差別主義と極端な保守主義、またそれを無意識のうちに遂行している人々も、多様性の対極にあると考えている。

なぜならそれらの人々には、彼らのみが正義で他は全て悪と見做す視野狭窄の性癖がある。つまり彼らは極論者であり過激派だ。むろんその意味では左派の極論者も同じ穴のムジナだ。

‘’多様性は敵も抱擁する‘’

だが多様性を信奉する立場の者は、彼らを排除したりはしない。 ネトウヨ・ヘイト系排外差別主義や極右は危険だが、同時にそれは多様性の一環でもある、と考えるのである。

多様性の精神は、「それらの人々のおかげで、寛容や友愛や共存や思いやりや友誼、つまり“多様性”がいかに大切なものであるかが、さらに良く分かる」と捉えて、彼らはむしろ“必要悪”であるとさえ結論付ける。

例えば政治危機のような非常時には、国民の平時の心構えが大きく作用する。つまり、多様性のある社会では、政治が一方に偏り過ぎるときは、多様性自体が画一主義に陥り全体主義に走ろうとする力を抑える働きをする。

一方でネトネトウヨ・ヘイト系排外差別主義がはびこる世界では、その力が働かない。それどころか彼らの平時の在り方が一気に加速して、ヘイトと不寛容と差別が横行する社会が出現してしまう。

ここイタリアには、冒頭で触れたように、来たる総選挙を経てほぼ確実に極右政党が主導権を握る政権が誕生すると見られている。

その政権には保守主義を逸脱して、ファシズムへ傾こうとするモメンタムが働くことが十分に予想される。

だがイタリア社会に息づく多様性の精神が、危険なその動きにブレーキを掛ける可能性が非常に高い。

そうは考えられるものの、しかし、油断大敵であることは言うまでもない。



facebook:masanorinakasone