NHKの朝ドラ「ちむどんどん」の役者がつまらないなら、それは演出がダイコンでありプロデュサーがボケだからである。
役者の力量は役者自身の責任である。役者はそれを背負って出演依頼の声がかかるのを待つ。あるいは出演審査のオーディションに向かう。
役者の力量は目に見えている。それを見抜けないのがダイコン演出家である。
役者の力量を見抜けない彼は、撮影現場では役者の拙い演技に気づかず従ってアドバイスもダメ出しもでずきない。
むろん彼は役者のオーバーアクション(演技過剰)も制御できない。そうやって例えばにーにーの大げさなクサい芝居が次々に繰り出される。
役者がオーバーアクションをするのは、つまり彼が役者だからだ。彼には役者の素質があるのである(素人には過剰演技はできない。過剰演技どころか固まって何もできないのが素人だ)。だから彼は撮影現場まで進出できた。
役者をコントロールするのが演出だ。この場合のコントロールとは、もちろん役者を縛ることではない。演出の意図に合うように彼らを誘導することだ。
役者は台本を読み、演出家と打ち合わせをして、必ず演出の意図に合う芝居を心がけている(大物役者が演出を無視して勝手に動く問題はまた別の議論だ)。
だが役者は独立した一個の個性だから、彼の個性で台本を解釈し演出の意図を読み取り表現しようとする。
演出家は役者の表現が自らの感性に合致しているかどうかを判断してOKを出す。あるいはダメ出しをする。実に単純明快な構図である。
ダイコン演出家は自らの意図が何であるかが分からない。だからコンテンツが乱れ、混乱する。そうやって下手なドラマが完成していく。
「ちむどんどん」の不出来の責任は全て、脚本の下手を見抜けず役者を誘導できない演出の責任である。その演出家を選んだプロデュサーの責任も重い。
だが最大最悪の罪は、脚本を把握し、役者を手中に置き、現場の一切を仕切る演出(監督)にある。
もう一度言う。ドラマがすべりまくるのは役者が下手なのではなく、演出家がダイコンだからだ。
ダイコン演出家の手にかかると脚本も役者もそしてドラマそのものも「大ダイコン」にすべりまくる。
一方で演出は、ドラマが成功すれば脚本の充実も役者の輝きも全て彼の力量故という評価を得る。
演出とはそんな具合に怖い、且つ痛快な仕事だ。
だから視聴者は役者ではなく、「痛快」を楽しむことができるのにそうしない(できない)演出家を罵倒するほうが公平、というものである。