2022年9月26日から27日にかけて、イタリアの各放送局は、総選挙で大勝した極右政党「イタリアの同胞」と、次期首相就任が濃厚な同党のジョルジャ・メローニ党首にスポットを当てた報道を繰り返した。
イタリア初の女性首相の誕生は喜ばしいことだが、彼女が極右を通り越してファシストの心まで持つ人物とあっては、「めでたさも中くらい」どころか最悪の気分である。
だがファシスト政権は現代イタリアでは生き延びることはできない。従って彼女の政権は必ず中道寄りに軌道修正することを余儀なくされる。メローニ氏の言動には既にその兆候が見える。
そうではあるものの、ファシストの流れを汲むメローニ首相率いるイタリア共和国政府なんて、できれば目にしたくはない、というのがやはり正直な気持ちだ。
そんな折、安倍元首相の国葬の模様が衛星日本語放送を介して流れた。思わず気を引かれて見入った。見るうちにイタリアの選挙結果がもたらしていた重い気分が晴れた。
いや、重い気分が晴れたわけではない。安倍元首相の国葬儀を見進めるうちに、絶望的な感覚が身いっぱいに広がって、イタリア政局への怒りがどこかに吹き飛んでしまったというのが真実だ。
葬儀委員長と称する岸田首相の、独善的で恥知らずで不遜な追悼の辞に驚いた。また安倍元首相のポチ、菅前首相のうんざりするほど長い、空疎で笑止な“友人代表ラブレター”にも苦笑させられた。
数だけはやたらと多い出席者と、式次第と、儀式の中味の空しさに呆然とした。
先日のエリザベス女王の国葬と比べるのは詮無いことと知りつつ、それでも比べてしまう自分がいた。比べると心が寒々と萎えた。
目を覆いたくなるほど浅薄でうつろなセレモニーが続いた。虚栄心満載の無意味な式辞も、えんえんと繰り返される。
世論調査に慎重なNHKを含む報道各社が、「6割以上の国民が反対」と報告する国葬を岸田政権が強行したのは、ネオファシストと呼ばれることさえあるここイタリアの前述の次期首相、ジョルジャ・メローニ氏も真っ青の独断専行ぶりだ。
閣議決定だけで国事を進めることができるなら国会は要らない。それはつまり民主主義など要らないということと同じだ。
独自の思案を持たず、他派閥の顔色を伺うばかりに見える優柔不断な岸田首相の身内には、恐るべき独裁者気質が秘匿されているようだ。
6割の国民が反対し、例えば1割の国民が意見を持たないとするならば、残り3割の国民が国葬に賛成していることになる。その事実は尊重されるべきだ。
同時に6割の国民の思いも必ず尊重されなければならない。
だが岸田ご都合主義政権は、そのことを完全に無視している。3割のみを敬重し、少なくとも6割の国民を侮辱している。
葬送の儀は、どう考えても国葬ではない式典であるべきだったのだ。3割の国民と、安倍氏に心酔する自民党議員のみで合同葬を行っていれば、何も問題はなかった。
考えたくもないことだが、しかし、熱しやすく冷めやすくしかも忘れっぽい日本国民は、のど元を過ぎればこの無残な国葬騒ぎでさえ忘れがちになることだろう。
だが今回ばかりは断じて忘れてはならない。反民主主義どころか、イタリアの次期政権を上回るファシズム体質とさえ規定できそうな、岸田右顧左眄政権を野放しにしてもならない。
日本の民主主義は真に危機に瀕している。民主主義を理解しない勢力が権力を握っているからだ。
岸田政権に比べれば、欧州の、ひいては民主主義世界全体の懸念を一身に集めている、ここイタリアの次期政権、極右のジョルジャ・メローニ政権でさえ可愛く見える。
イタリアでは民主主義の本則がはきちんと機能していて、極右政権といえども議会を無視して国事を行うことは絶対にできない。それをやれば選挙で確実に権力の座から引き摺り下ろされる。
民主主義制度の自浄作用が働いて、ここイタリアでは政権交代があっさりと、当たり前に起こるのだ。
それに比べると、岸田政権のような横暴な権力が幅を利かせている日本の民主主義の土壌は、全くもってお寒い限り、と言わざるを得ない。