4人海で横長

演出の罪

「ちむどんどん」スペシャルを見た。比嘉家の4兄妹が終わったばかりの番組について素の俳優に戻って語り合う、という趣向だった。

和気あいあいとした彼らの語りはすがすがしく納得できる内容だった。役回りについての4人のそれぞれの思いもきっちりと伝わった。

進行役を務めた川口春奈の自然でユーモラスで思いやりに富んだ語り口が印象的だった。僕ははたちまち彼女のファンになった。

4人の俳優のトークは、彼らが人間的にすばらしい若者たちで、且つプロの優秀な役者であることをあらためて示していた。それを確認できたことを僕は嬉しく思った。

僕は「ちむこんどん」については否定的な立場でこれまでに何度もそう書いてきた。僕のネガティブな見方は、繰り返して述べたように演出をはじめとする制作者へのものだった。

特に演出への批判は尽きなかった。脚本が悪いという意見も多くあったようだが、そして僕もそのことを否定はしないが、脚本は演出によっていくらでもダメ出しができる。

従って脚本にダメ出しをしなかった演出はもっとさらに責められるべきだ。

僕は演出家を筆頭にする「ちむどんどん」の制作陣の名前は一切知らない。ドラマの中身だけを見て批評した。それができたのは番組を録画して、クレジットの部分を飛ばして見続けたからだ。

そこには時間節約の意味もあったが、名前よりも制作のコンセプト、つまり演出の意図と彼の役割のみを重視したいという考えがあった。

日本の制作環境

僕はドキュメンタリー制作者だが下手な演出家でもある。その僕の数少ない劇作の経験によると、日本では演出の責任が少しあいまいであるように記憶している。

僕は劇作をする場合、脚本に注文をつけることを恐れない。というか、演出家は自己責任において脚本を管理下に置くべきだ。

管理下に置くことはほとんど義務だ。なぜなら脚本を含む劇作の全ての責任は演出にあるからだ。重ねて言いたいが、作品の結果の責任は、成功、失敗の区別なく一切が演出にある

ところが日本では、ドラマ作りのような極めてクリエイティブな世界でも和の精神が生きていて、演出の絶対的な権威よりもスタッフ全員の合意を重視するように感じた。

そういう環境では作品の核がぼやける危険がある。

そして日本のドラマ制作ではその危険が現実化するケースが多い。「ちむどんどん」はまさにその陥穽にはまったのだと思う。

和の重視は笑いの敵

恐らく制作の現場では出演者や技術系を含む全てのスタッフが、演出側と共ににーにーの演技に笑い、楽しみ、存在を盛り上げたに違いない。和の精神で全員が高揚する場面が見えるようだ。

それは良いのだが、全ての責任を負っている演出は、そこから一歩引いて、現場の笑いが直接に茶の間の笑いになるのではないことを冷静に見極めなければならない。

スタッフと共に盛り上がる演出はそのことを忘れたフシがある。和の精神に引きずられて、演出の責任を共有するとまでは言わないが、演出の実存である「孤独」と「責任」を放棄している。

それでなければ、にーにーが牽引する杜撰なシーンがこれでもかとばかりに提示され続けた理由が分からない。演出が独りで考え断固として差配していれば起こりにくいことだ。

現場でスタッフが大笑いするシーンは、得てして茶の間にシラケを呼び込む。演出は劇中の笑いが、彼とスタッフが鬼面になり苦しんで作り上げるものであることを軽視している。僕にはそう感じられる。

そこには「劇作りは演出が全て」という厳しい掟がおざなりになって、スタッフ全員が“共同で”シーンを作り上げていく、という和の精神の横溢が見える。既述のようにそれは往々にして作品の核を破壊する。

脚本の不備も演出の罪

演出は脚本が提示したにーにーのキャラクターに、それがドラマの大いなる欠陥であることに気づくことなくOKを出し、その結果引き起こされるさまざまなエピソードも良しとした。

のみならず彼自身も大いに自己投影して、にーにーが視聴者にたくさんの“笑いを届け得るキャラクター”だと信じ切り、劇作りの現場でそのように演出した。

その結果、映画「男はつらいよ」の寅さんを強く意識した、馬鹿で惚れっぽい愛すべき男の形象がふんだんに詰め込まれた。しかし全てが空回りした。

空回りしたのは同じようなシーンが頻出したからだ。たとえに-にーが本物の馬鹿であっても、現実世界でなら必ず歯止めがかかるはずの成り行きが、そうはならずに何度も見過ごされた。

しかも再三提示される(演出が面白いと信じているらしい)にーにーの動きは、ひたすら鬱陶しいだけだった。視聴者が疲れていることに気づけない演出の独りよがりはさらにもっとつまらなかった。

半年にも渡ってほぼ毎日放映される朝ドラは、ドラマツルギー的には全体にゆるい軽いものにならざるを得ない。従ってソープオペラよろしくある意味では批評に値しない。

それでも僕が批評じみた文章を書いたのは、ドラマの瑕疵が大きく、しかもそれは役者の問題ではなく「演出の問題」であることを指摘したかったからだ。

素晴らしい俳優たち

筆者は「ちむどんどん」スペシャルに顔を出した4人の俳優のうち、3人の演技を別番組で見て既に知っていた。

主人公の暢子役の黒島結菜はNHKドラマの「アシガール」、 にーにー役の竜星 涼は日本テレビの「同期のサクラ」、良子の川口春奈はNHK大河ドラマ「麒麟が来る」でそれぞれが好演していた。

彼らはドラマの内容も、それぞれの役のキャラクターも全く違う「ちむどんどん」の世界でも、きちんと仕事をこなした。彼らはいずれ劣らぬ有能な俳優なのだ。

末っ子の歌子を演じた上白石萌歌は「ちむどんどん」で初めて知ったが、おそらく彼女の場合も同じでだろう。難しい役回りの歌子をしっかりと演じていたのを見ればそれは明らかだ。

彼ら4人を含む「ちむどんどん」の多くの出演者は、脚本を支配する(しているはずの)演出の指示のままに彼らの高い能力を十二分に発揮して、それぞれの役を演じた。

その長丁場のドラマは、竜星 涼という役者が彼の優れた演技能力を思い切り示して演じた、にーにーというキャラクターとエピソードがNGだったために、大いに品質を落とした。

それは断じて役者の咎ではなく、これまで繰り返し述べたように演出の責任だ。演出は ― くどいようですが― 脚本をコントロールできなかったことも含めて批判されなければならないのだ。

一方、役者は脚本と演出が示すキャラクターを十全に演じ切った。そうやって愚劣なエピソードが積み重ねられ、リアリティのない不出来一辺倒のにーにーという人物像が一人歩きをした。

にーにーほどの不出来ではないが、主人公の暢子の人物像も感心できないものだった。本来なら前向きで明るいはずの主人公の暢子のキャラクターも、にーにーとの絡みで混乱した。

彼女もまたニーニーに似て、いい加減で鈍感な女性、と英語本来の意味での「ナイーブ」な視聴者に認識されてしまったフシがある。

再び言いたい。暢子の問題は断じて演者である黒島結菜の問題ではなく、暢子と劇を作り上げた制作者の、もっと具体的に言えば演出の責任である。

リメイク版があるならば

「ちむどんどん」は、にーにーのエピソードを思い切り短縮して、且つ人物像をリアルなものにしない限り、ドラマ全体の救済はできない。

それができれば、にーにーとの関わりで視聴者の不評をかった暢子の場面の改善や削減もできる。そしてその改定場面は連鎖して必ずほかの場面の内容の向上にもつながる。

だがそれは、たとえ番組のリメイクが許されたとしても恐らく実現しない。なぜならスペシャル版では、スピンオフ物語として性懲りもなくにーにーの物語がまた挿入されていたからだ。しかも再び長々と。

つまり制作サイドは、にーにーの存在の疎ましさがドラマの最大の瑕疵だと気づいていない。あるいは気づいていても認めたくないようだ。

一方で、4人の兄弟を始めとする出演者の全員はそれぞれがキラ星のごとく輝いていた。誰もが胸を張って今後のキャリアに邁進してほしいと思う。

中でも僕は、特に演出の失態の損害を被ったように見える黒島結菜に大きなエールを送りたい。





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